【第150回】 一瞬を大切に

高齢者という概念の捉え方は、時代や環境や人によって違う。かつて「人生五十年」と言われた頃なら、50歳以上は高齢者であったろうし、欧米なら定年の60歳以上は高齢者になろう。現在の男性80歳、女性86歳が平均寿命の日本では、80歳以上にもなれば高齢者といえるだろう。しかし制度上、国は60歳や65歳からは高齢者としているので、そこに現実との大きなギャップがあり、それが国と本人に混乱をもたらしていると思う。国は65歳を高齢者として扱うわけだが、平均寿命にも達していないひとが自分は高齢者と考えれば、本当に高齢者になってしまうのではないか。自縛である。自縛しないためには、もっと自由に考えなければならない。

考えることは、自由である。人間は宇宙と同じである、と言われている。とすると、宇宙は限りなく、無限であると言われているので、人間の考え、思考、思いにも通じるはずである。そうなると、宇宙のように、人の考えも自由で無限にできるはずである。

武道では50、60歳はまだまだ鼻ったれ小僧とは、開祖によく言われたものである。当時はまだ学生だったが、30、40歳代の師範を偉い先生と尊敬し、教えを受けていたので、開祖が言われることはよく理解できなかった。自分が50、60歳になって、まだ何も判っていないことがやっと分かり、やはり50,60歳は鼻ったれ小僧だなという実感を持ったのである。

合気道流に言えば、人生を節々に生きなければならないが、その節の一つは定年退職であろう。60、65歳で、鼻ったれ小僧から脱していかなければならない、大事な節目になるからである。それでは、その前と後ではどう違うのかということになると、その前は物事を習い、吸収することが主であるはずである。他人の真似、大人(たいじん)の模倣、継承である。この節目の後は、それまで習い、模倣して培ったことを消化し、自分として具現することではないだろうか。

70歳ぐらいになってくると誰でも先が見えてくるし、人生のはかなさを感じるようになる。そして、人生の面白さや、生まれてきたこと、生きていることへの驚きと感謝を感じるようになる。若いうちは、生きていることは当然だと思うものだ。だから、感激が少ないのだろう。

ここへきて、はじめて稽古の内容も変わることができるようだ。先があまりないことを無意識のうちに考えるようになるため、ひとつひとつの稽古を大事にするようになる。大事にするということは、自分を技の中に入れ込む、ということもできる。今まで生きてきたこと、体験したこと、考えたこと、また今、自分が考えていること、そして、自分が目指すことなどの過去現在未来(過現未)を、凝縮したものにする。一瞬のわざ(技と業)に過現未を入れ込むのである。

これは鼻ったれ小僧には難しい。この過現未のわざ(技と業)は、全自分を具現したもので、小手先だけを遣った技ではなく、それまでの人生が凝縮し、人生観、世界観が入った、強く、説得力があるわざ(技と業)であるはずである。すると、技に各人の個性がでることになる。それが真の強さであり、美しさとなるのだろう。

一瞬のわざ(技と業)に自分のすべてを入れ込むということを稽古で学び、身につけていけば、日常生活でも一瞬一瞬を大事にできるようになるはずである。大事にするということは、楽しむことである。楽しむということは、自分が楽しいと満足することであり、また他人も楽しく満足することでもある。高齢者が一瞬一瞬真剣に稽古をし、一瞬一瞬を楽しんで、その生きていく姿を若者が見れば、若者も稽古も生きることも大事にするはずである。若者が駄目になり、世の中がおかしくなる大きな原因のひとつは、高齢者にあるのではないだろうか。若者の未来を映す高齢者は、年を取るのは素晴らしいことだよと示し、若者に希望を与えなければならないだろう。

若者のため、世の中のため、他人のため、そして自分のため、一瞬を大切にし、厳しく、そして楽しく稽古をしていきたいものである。