【第150回】 信じきる

どんなことでもそうであるが、合気道を修行しようと決めたら、先ずは合気道を信じきらなければならない。疑ってやったり、批判しながらやっても、上達はない。中には合気道の他に、他の武道や武術をやって、全部で何十段だといって威張っている人がいるが、裏を返せば、その人はどれも信じきれていないということで、どれにも満足することができず、不幸であるといっていることになる。また、自分のやっていることに信頼をおいていないわけだから、やっている武道やその指導者に対しても失礼であろう。

自分の本当にやりたいものを探すのもそうだが、師匠は長い時間をかけて探せと、昔から言われているが、信じきれる師匠が決まれば、あとは師匠を信じ、そして師匠の言うこと、やることに従わなければならない。たとえ、師匠がちょっと違うのではないかとか、こんなことはみっともなくて出来ないということがあったとしても、師匠のようにやるべきである。

師匠が檻の中の熊のような体を揺するような歩き方をしても、師匠になるべく近づくためには、揺すって歩かなければ師匠には近づけない。すぐにはその意味するところは分からないものだ。大体は長い年月が経ち、または師匠と別れた後に分かってくるものだ。例えば、揺すり歩きにしても、陰陽の足遣いを師匠は教えようとされて、我々に分かり易いようにオーバーにやられていたことが後で分かるのである。そのとき師匠を信じきっていなければ、足遣いは永久に分からないことになる。自分のことを考えても、冷や汗ものである。

開祖は、「皆は眩しいというが、わしはお日様を見ても眩しくない。お日様と仲良しだからな」と、よく我々稽古人に言われていたものだ。合気道では、宇宙すべてのものと仲良くなければならないことになっているのだから、お日様とも仲良くならなければならないだろう。しかし、ひとはお日様を見ると目を傷めるというし、医者もそういう。大抵のひとは人や医者などのいうことを信じ、お日様は見ないだろう。だから、お日様と仲良くなれないとも言える。

合気道を信じきり、大先生を信じきれば、お日様を見ることができるだろうし、お日様と仲良くなれるだろう。しかし、もしかすると目を傷めるかもしれない。痛めないという保証はない。でも、自分が信じた結果、自分でやることである。どんな結果が出ても諦めがつくはずだ。なにかやるにはリスクがつきものだ。それに、大先生はわれわれに嘘や偽り、悪いことは決して言わないはずであると、大先生を信じきることである。信じきると楽である。太陽とも仲良しになれるだろう。それがどう発展して、なにが出てくるかが楽しみである。

信じるもの、信じるひとが言ったこと、書いたものは、それを信じきって勉強し、探求することが大事であろう。それを阻む「悪魔の声」に騙されないようにすることである。