【第148回】 やるべきことをやる

合気道は技を通して修練し、道を極めようとするものなので、技が出来る程度にしか、合気の道は分からないことになる。また、技を見れば、その人がどのくらい合気道を理解し、どこまで行き着いたかが大体分かることとなる。

合気道の技を習得し、上達するためには、ただ漠然と稽古を続け、稽古時間を増やせばいいということではない。理合の道に則った稽古をしなければならない。理に合った、道に則った稽古というのはどういう稽古で、何を基準にしているかと言えば、自然であり、自然の理に適うことである。自然ということは、無駄がなく、美しく、強く、説得力に富んだものであろう。そしてそれは合気道が目標とする宇宙の運行、宇宙生成化育に沿ったものであるはずである。

合気道には基本技といわれるものがあるが、基本技は合気道の入り口であり、登竜門であり、そして極意でもある。初心者には容易に入りやすいが、分かり難く出難い。また上達者が最も苦労する技でもある。基本技がどれだけできるかで、合気道の技をどれだけマスター出来たかが分かるともいえよう。

基本技は応用技に比べれば単純である。しかし、奥が深い。表面的になぞるのは容易であるから、はじめに習うものである。一教、入身投げ、四方投げ等が代表的な基本技であるが、これほど入りやすく、しかし出にくい技はない。 基本技は極意技であり、決して完璧にできるということはない。ただ限りなく完璧に近づく努力をしていくしかない。

完璧に近づくためには、合気道の道に入らなければならないし、道にのらなければならない。道にのるためには正しい入り口を見つけ、入らなければならない。正しい入り口に入るためには条件があるが、この条件を見つけ、それをクリアする挑戦をしなければならない。容易なことではないが、大事なのは、出来る出来ないではなく、やるかどうかである。

やろうとしなければ道に入れず、他の横道を行くことになる。例えば、「入身投げ」を身につけたいとすれば、「入身して転換する」という「入身投げ」に、絶対必要条件がある。相手の死角に身を入れて、体を相手の臍や顔と同じ方向を向くまで体と気持ちを転換するのである。これをしなければ、相手と四つに組んでしまい、技が変わってしまうし、合気道ではなくなってしまう。

出来なくともいい、相手が倒れなくともいいから、この入身転換(入身して転換する)を少しでも納得がいくよう、試行錯誤しながら修練することが大切なのである。この修練の努力の過程を道というのだろう。この重要性に気づき、その修練をはじめたときに、入り口が開き、道にのったことになる。後はその道を進めばいい。

この入身転換ができるようになれば、「入身投げ」が徒手で出来るようになるだけでなく、短刀取りや太刀取りも出来るようになるし、他の技でも入身転換が応用できて、新たな道が開かれるはずだ。つまり、「入身投げ」というのは、入身転換を覚えるための代表基本技、鍛錬の手段ということになり、「入身投げ」が上手くいくためだけのものではないことになる。

従って、入身転換(入身して転換する)をきちっとやらなければ、「入身投げ」だけではなく、他の技も出来ないし、道を先に進めることも、開くこともできない訳である。例えば「天地投げ」である。上手くいかないのは、大体の場合、入身転換ができないからといえる。

また、基本中の基本技に「一教」がある。昔は第一教と言われていたが、今の一教の考え方、やり方はちょっと違ってきているようだ。開祖晩年の頃の第一教は、自分の腕を主体に遣って、相手の腕をおさえて崩すもので、「腕押さえ」と言われていた。従って、今の二教裏を掛ける場合でも、手首ではなく腕を絞り込んで崩していた。開祖はこの一教で、しっかりした腕と体をつくることを奨励していたと考える。確かに、腕が腰腹と結んでしっかりしていなければ、どんな技もそれ相応にしかできない。

その典型的な技は「小手返し」であろう。上手く行かないのは腕がしっかりしていないからである。「小手返し」が上手くなりたいなら、小手返しを稽古するより、一教をしっかり稽古した方がよい。

一教以外で、しっかりした腕をつくる合気道の最良の方法は、「諸手取り呼吸法」と言うことができるだろう。これがどれだけできるかで、腕がどれだけしっかりしたか分かることになり、どれだけ技ができるかということにもなる。有川師範からは、「諸手取りの呼吸法が出来る程度にしか、技もできないものである。」と教わったものである。

この他にやるべきことは沢山ある。例えば、

以上のようなことを意識してやるのが「道の入り口」に入ったことであり、後はその道を進めばよいだけである。 先ずは、やるべきことを見つけて、「道の入り口」に入らなければならないだろう。