【第145回】 分からないことが分からない

稽古というものは、出来ないことが出来るように、出来たことを更によりよく出来るようにすることだろう。それに、分からないことを分かるようにすることでもある。従って、自分の出来ないことが分からなければ、それを出来るようにすることは出来ない。また、自分が分からないことが分からなければ、上達はないだろう。

初心者の最大の問題は、自分に何が分からないのか、何が出来ないのかが分からないことである。上級者の上級者たる所以は、自分は何が分からないのか、何が出来ないのか分かっている事であると言えよう。

合気道には試合がないので、勝ち負けということはない。どんなに長くやっている古い人でも、高段者でも、稽古の半分は受けをとるので、表面的には初心者でも、高段者や老練者を投げたり押さえたりできることになる。やるべき技によほど程遠いことをしないかぎり、相手は受けを取ってくれる。それ故、たまに相手が頑張って受けを取らなかったり、上手く投げたり押さえたりできないと、受けのせいにしてしまうことにもなる。自分は正しくて、相手が悪いと思ってしまうのである。これでは、自分を上達させる稽古にはならない。

相手を上手く投げたり、押さえることが出来ないのは、面白くないだろう。しかし、本当に上達したいと思うなら、その出来なかったことに感謝しなければならない。何故ならば、それは自分が出来ないという事実を示してくれ、教えてくれたからである。

はじめのうちは、人は自分のやり方がまずくても、自分が出来ないことに気がつかないものである。しかし、大きなショックを受けると、それに気がつくようになる。初心者の頃のショックとしては、相手に技を如何に力一杯かけても効かないし、息が上がってしまうことや、二教の手首捻りで痛みに耐えられなかったこと等あったが、そのお陰で、得意技をつくるべき毎日練習したし、手首を鍛える鍛錬を始めたし、息が上がらなくなるために先輩に足腰が立たなくなるほど投げてもらったりするようになったものだ。

大きなショックから、自分の出来ないことを自覚し、その解決を図ろうとするのは、誰でもやっていることだろう。もし、出来なかったことを他人のせいにしたり、その問題を自覚できなかったり、何の問題解決も図ろうとしないとすれば、上達はないことになる。型を覚える時期の習いたての頃は、指導者から問題を指摘され、その解決法を教えてもらうこともあろうが、技を磨く段階に入ると、他人はなかなか自分の問題を指摘してくれなくなってくる。そうなると、自分で解決するほかなくなってくる。

上達の度合いは、ショックを受けるほど大きくはない問題に気づいて、如何にその対策のための稽古をするかにかかっている。神様ではないのだから、完全な技は使えない。必ず何か問題はあるはずである。それを意識して稽古をしているかどうかが、上達の有無になるのではないか。何が出来ないのか、何が分からないのかという問題を見つけ、その問題を一つ一つ丁寧に解いていくのが、特に、上級者、高段者の稽古となろう。もし何も問題を持たずに稽古をしても、稽古の目的がないのでは、行くべき方向がなく、道の稽古にならないことになる。

自分は何が出来ないのか、何が分からないのかに気がつくためには、真の合気道の稽古をしなければならない。例えば、合気道は争いではない。相手と戦うのではなく、自分との戦いであることを自覚することである。相手は自分の稽古を助けてくれる支援者なのである。相手を敵と考えて稽古している限り、気持ちは相手に行ってしまい、相手に捉われることになり、自分を見つめることは難しい。

先ずは、ショックを受けた大きな問題からはじめ、段々と小さな問題、繊細な問題を自覚し、それを解決するように、稽古をしていきたいものである。出来ない、分からないことは仕方がない。それを自覚して、分かるよう、出来るようにすることが大事であろう。