【第142回】 相手はいるが、相手はいない

合気道の稽古は、基本的には相対(あいたい)稽古である。どんなに天才的な人でも、砂漠や山奥で一人だけで稽古して合気道の技を極め、悟りの境地に達するのは難しいだろう。稽古相手をしてくれる人には感謝しなければならない。しかし、その感謝すべき相手とは時として争ったり、憎み合ったりしてしまうこともある。

合気道の相対稽古では、示された技を遣って相手を倒したり、抑えたりする。相手によって上手く倒せたり、抑えたりできるが、相手によっては思うようにいかない場合もあるものだ。

開祖は、「己が日頃の修練のままにおのずから動けば、不思議なことに、相手もその通りに動くようになるものである。それが合気道の妙味である。」と言われており、相手を思うように動かすことは可能であるとする。

我々のレベルでは、どんな相手も自由に動かすことなどできるわけがない。でも、そうだからといって諦めてしまうのも面白くないので、少しでもそれに近づけるよう努力するしかないだろう。

相手にもよるだろうが、我々のレベルでも、相手をある程度自由に動かすことができるように思える。結んでしまえば、相手がこちらの掛ける技に逆らおうと頭で思っているようでも、体の方がついてきてしまうのである。体がくっついてしまえば、二人が一人になることなので、相手を思うように動かすことができるのである。

それが出来るためには次のようなことが大事であるようだ。まず、体がある程度合気の体になっていること。例えば、体の節々の糟(かす)を取り除いていること。糟が溜まっていては、そこは油が切れて錆た状態になるし、本当の力が出せないことになる。次に、力の出し方と遣い方である。末端の力を力んで遣うのではなく、肩を貫いて、腰腹と手を結んで、中心からの力を遣わなければならない。

三つ目は、体の遣い方である。ナンバで、陰陽で交互に規則正しく、無理なく、自然に動くことである。開祖流に言えば「宇宙の運行」に即した動きである。それに相手や相手との接点を見ながら、動かないことである。 四つ目は、心、精神の持ち方である。稽古相手を敵と思ったり、やっつける対象物と思うのではなく、自分の稽古の支援者、協力者と思わなければならない。時間軸と空間軸が交差した偶然ともいえる時点で一緒に稽古ができることに感謝するとともに、打ったり持ったりしてくれる相手は、自分一人では到底できない負荷をかけてくれるものだったり、こちらが掛けた技の反応を示してくれる有難い存在でもある。

ここに「愛」が生まれ、この「愛」が媒体となって合気ができることになる。すると相手の皮膚、筋肉、骨が同調し、くっついてしまい、相手の気持ちとは関係なく、こちらの思うように動くようになる。相手に触れている手は、相手が離したくともくっ付いて離れなくなり、しかも気持ち良さそうにこちらと一体化してしまい、二人が一つになってしまう。一つになれば自分の思うように動けることになる。これが「相手がいて、相手がいない」ということではないだろうか。