【第140回】 今、まだ出来なくてもいい

合気道の稽古は、基本的には道場で二人で組む相対稽古である。いつも決った人ではなく、違った人とやることになるわけだが、やり易い人もいれば、やり難い人もいるだろうし、技がかかりやすい人もいれば、技が全然効かない人もいる。すべての人に、いつも技が思うように掛かるなど、開祖や一部の名人、達人だけであり、通常の稽古人はいつも思い通りにいくと言う事はないはずである。

初心者は、技が上手くかからなくとも当然だと思ったり、仕方がないと考えるが、長年稽古をした高齢者などは、そんなはずはない、自分の技は効くはずで、効かねばならないと思い勝ちになるようだ。長年稽古をすれば、技も覚え、体も無意識で動くようになるが、相手があることなので、そういつも上手くいくわけがない。例えば、相手が自分より長く稽古していたり、たとえ自分より後輩であっても、本気で頑張り、抵抗してくれば、なかなか思うようにはいかないものである。

初心者もそうだが、ベテランでも出来ないことは出来ないのである。合気道は力を込め、精神を集中し、気を入れてやればできるというものではない。一生懸命やって出来なくとも、形を崩してまでがむしゃらに技を掛けようとはせず、先に繋がる稽古をするのがよい。典型的なのは二教の裏であるが、いくら力んでも効かないものは効かないのに、しがみついてやっている。三度ぐらいまでは、本人の稽古にもなるからいいだろうが、それ以上は本人のためにならないし、時間の無駄であり相手に失礼だろう。

それよりも効かないと分かったら、先に繋がるようにすべきである。例えば、指(薬指、小指、親指)を腹に結びつけ、内外(左右)に絞る鍛錬をすればいい。そのときは相手を崩すことはできないだろうが、それが力となり、体ができ、何時の日かそれが「わざ」として遣えるようになる。そしていずれ、この絞りの力がつくことによって、二教裏だけでなく他の技も驚くべく上達しているものだ。

スポーツは今の勝負、勝ち負けが大事であるが、合気道は自分が最後に何が、何処まで出来るかが大事であり、今は出来なくてもいいのである。高齢者になると、先が無いという焦りがあるかもしれないが、お迎えがいつくるかはあちらにお任せして、高齢者も、時に捉われず、自分の理想の姿を追って、精一杯、明日に繋がる稽古をすべきであろう。今は、まだできなくてもよい。最後にどれだけ出来るかを楽しみにして、稽古をするのがよいのではないか。