【第139回】 「かた」(「形」「型」)と技とわざ

合気道には基本技がある。また応用技というものもある。一般的には道場稽古では相対(あいたい)で基本技を繰り返し々々練習するが、上手く技が決まったり決らなかったりする。上達の秘訣の一つは、上手くいかなかったことをどう捉え、対処するかである。相手が強かったのでしょうがないとして、それを忘れてしまうか、またはその事実を真摯に受け止め、そこにあって問題を洗い出し、それに対する問題解決法を真剣に考えるかどうかに分かれる。上手く行かなかったことをそのままにして置けば、また同じ状況になっても、同じ失敗をくりかえすことになってしまい、上達がない。

正面打ち一教とか片手取り四方投げ等を、合気道では「形」「型」(かた)とは言わず「技」という。しかしながら合気道にも「かた」(「形」「型」)はある。初心者はこの「かた」(「形」「型」)から入っていかなければならないし、また「かた」(「形」「型」)からしか入っていけない。なぜならば、初心者にはまともな「技」は遣えないからである。合気道での上達を阻害する要因の一つに、この錯覚がある。基本の「かた」(「形」「型」)を覚えると「技」が出来ると思うことである。つまり、例えば、片手取り四方投げという「かた」がなぞれると「技」が出来たと思ってしまうのである。

「かた」(「形」「型」)を覚えることは大事である。開祖が、「合気道に形はない」といわれるのは、「かた」(「形」「型」)を疎かにしてもいいということではなく、「かた」(「形」「型」)は最終的な目標ではないぞ、ということであり、通らなければならない関門であるはずである。「かた」(「形」「型」)はきっちりと覚えなければならない。

「かた」(「形」「型」)を覚えるのは難しくない。これは誰でも習うことができる。またそれほど修行しなくとも、誰でも同じように教えることができるからである。

「かた」(「形」「型」)は習えるが、「技」は習うのが難しい。よほど熟達した指導者でないと、理合の「技」は教えられないし、たとえ教えられても、教わる本人の実力レベルがそこまで高くなければ吸収できず、出来ないことになる。つまり、教える「技」のレベルと教わる人のレベルが一致していなければ出来ないことになる。一般的に教える側が「技」のレベルを教わる者のレベルに落として教えたり、見せたりすることはないので、習う方が自分のレベルに合ったものを取り入れることになる。そのため自分のレベルアップをして少しでもレベルの高い「技」を学ぼうとする。従って、「かた」(「形」「型」)を習うのと違い、技は盗めと言われる。というより、「技」は盗むより方法がないのである。

四方投げ、一教などの「技」は相手を抑えたり、投げたりする技(テクニック)である。合気道の最終目標ではないだろうが、しっかり効いていなければならない。

しかしながら、「技」だけでは相手を崩したり、倒すのは難しい。技を活かして遣うためのベースとなる理合の動き、体遣い、業がなければならない。これを「わざ」ということにする。「わざ」は合気道だけのものではかく、他の武道、武芸、芸道などとも共通するものであろう。例えば、腰腹を中心に動く、腰腹手足が結んで連動して動く、肩を貫いて腰腹から手に力を伝える、足は居つかず左右交互に動く、体を捻らない、呼吸に合わせた体遣いや動きをする、等々である。

このような「わざ」は限りなくある。また「わざ」は各人が体のつくりや考え方が違うのだから、人によって大分違ってくるかもしれない。「かた」(「形」「型」)と「技」は開祖が創られ、先人たちが継承してきているもので変えてはいけないが、「わざ」は各人の特質により変えてもいいのだろう。この無限の「わざ」により、合気道の「かた」(「形」「型」)と技は、形(かたち)に捉われることなく、個性的で時代に即した、また時代を先取りする武道であるのだろう。

しかしながら、形と技と「わざ」を混同して、やりやすい自己流でやってしまえば、幽界や神界、合気の道への扉は開かれないだろう。