【第138回】 発見

合気道だけでなく、習い事はすべてそうだろうが、時間がかかるものだ。しかし、ただ長くやれば上達するということでもない。長年続けることは上手くなる必要条件ではあるが、上手くなるための絶対条件とはならない。そもそも、これをすれば間違いなく上手くなるというものもない。否、正確に言えばある。あるが、無限にあるので「ない」に等しいのである。

稽古は長年続けていかないと上達しないということは、上達するために何か大事なことが沢山あるので、時間をかけてそれを見つけていくということ、しかし、それは容易に身につくものではないので、長年かけて繰り返し稽古をする必要がある、ということだろう。従って、長くやればやるほど、大事なことが身についてくるようにしなければならない。つまり、上手になるための何かの積み重ねがなければ、長く稽古したことに意味がないことになる。1日1日、毎回、何かが蓄積される稽古をしなければならないということである。

大事なことを積み重ねるためには、一回の稽古で何か発見をしなければならない。初心者のうちは、師範や指導者からいろいろ教えてもらうことが出来、それが積み重なっていくが、だんだん教えてもらえなくなってきて、何時の日にか自分自身で発見していかなければならなくなる。

何も発見がないのは、寂しいものである。大げさに言えば、その稽古は無駄だったことになる。発見があれば、感動がある。感動があれば、やり甲斐もある。明日の稽古、次の稽古が楽しみになる。ますます合気道にはまり込むようになるし、生きる張合いも増すだろう。感動は大事である。そのための発見は大事である。

発見には、大きな発見、小さな発見がある。大きい、小さいはひとによって判断が違うだろうが、小さな発見と思っても、それは大きいものであることも多い。例えば、或る技で「手の返し」の発見があったとすると、手のちょっとした返しなので、その技に占める重要性は低いかも知れないが、その返しがすべての「わざ」に遣えるはずなら、無限の発見ということになるので、大きな発見になる。だから、「大きな発見」だけに期待することはないのである。

発見は、まったく新しいことを見つけることでもない。先人が発見したことを、再発見することもある。先人の言われたこと、書かれたことを勉強し、自分の体で確認することである。それらを自分の体で表現でき、納得できれば、「発見」したことになろう。その発見が世間や他人にとっては発見でなくても、自分にとって新しい発見であればいいのである。

また、合気道の稽古だけではなく、日常生活でも「発見」をしていけば、明日が楽しみになり、少しでも長生きしたくなるのではないだろうか。