【第133回】 急がず回れ

今の世の中は目まぐるしく動いている。街中でも急ぎ足で歩き、前の人を追い抜こうとし、後の人に追い抜かれまいと、必死で歩いている。エスカレーターは駆け足で昇らないと気が済まないというようだし、電車は駆け込むし、赤信号でも渡ってしまう。それほど数秒、数分を争うほど急ぐ必要があるとも思えない。もし数秒、数分を争うほど急がなければならないとしたら、尚更に気の毒なことである。

現代は学校でも、会社でも無駄のない合理主義が良しとされている。なるべく短時間で問題の処理ができる人が評価されるので、人は合理的に生きようと、目標に向かって直線の最短距離を進もうとするようになった。つまり必要最小限のことしかやらず、余計なことはなるべくやらない傾向になってきているようである。

学校では試験科目しか勉強しないし、成績に関係がないので本も読まず、趣味も持たない。会社に行けば、仕事に時間と精力を捧げ、趣味も待たず、仕事関係以外の人との付き合いもない。仕事が最優先となり、子供や家庭も犠牲になってしまう。そして、挨拶も無駄とばかり、知らない人には挨拶もしない人間になる。そんな人間が多い日本になってしまった。

別世界であるはずの道場で稽古をしても、直線の最短距離を行く合理主義が持ち込まれている。相手を倒すことを目的にし、倒すことに専念してしまう。倒すまでの過程(プロセス)など、どうでもいいと思っているようだ。過程をしっかりやって、その結果として相手が崩れて倒れなければならないのに、その忍耐がないのか、急ぐあまり倒すことに一生懸命になってしまうのである。

合気道を稽古している高齢者の多くは、長年稽古をしてきている人であるが、若い頃の自分の合気道はどんどん変わったものが、年を取るに従って変わらなくなってくると悩む人が多い。合気道は年数を重ねても技の数が増えるわけでもなく、秘伝や奥義技が伝授されるわけでもない。稽古の基本は何時になっても、基本技を繰り返すのみである。初心者の頃の量(技の数)の稽古から質の稽古になるので、自分の合気道を変えるのは難しくなるだろう。従って、ある程度の段階に来ると、ただ技の稽古を繰り返しやってもなかなか上達しなくなってくるのである。

「わざ」を変えるのは、自分を変えていかなければならない。自分が変わらなければ「わざ」は変わらないのである。

初心者として習う期間中は、指導者の教えに従って、繰り返し稽古すればするほど上手くなっていくが、「わざ」を教えてくれる人がいなくなり、「わざ」を盗まなければ上達がなくなってくる時期に入ると、上手くなるためには自分を変えて行くしかなくなる。

「わざ」が上達するためには稽古は続けなければならないが、その他にも、例えば本を読んだり、合気道や武術の演武を観たり、能や仕舞、オペラ、歌舞伎、コンサートを観たり、旅行や神社仏閣巡りをしたり、セミナーや講演を聴いたり、一流の人に接したりして、自分を磨き、レベルアップして自分を変えて行くのである。

合気道が目指す「真善美」の探求とは、レベルアップである。例えば、自分の「美」の感性をレベルアップすれば、それまでの自分の合気道の「わざ」の美のレベルには満足できなくなるだろう。すると、「わざ」のレベルアップを美的観点からやらなければならないと思うようになる、という具合である。

「真善」のレベルアップには、『武産合気』『合気真髄』、そして植芝盛平開祖監修になる『合気道』は不可欠であろう。言葉を換えれば、この書籍が理解できる程度にしか「わざ」は遣えないといえる。何度も何度も読んで、読む回数が増える毎に少しずつ分かって行けば、分かっただけ「わざ」もレベルアップするはずである。

高齢者はもう急ぐ必要はないだろう。倒すことを目的にして、急いで直線を行くことはないだろう。これまで知らなかったことに挑戦したり、新しい体験をするなど、回り道をして、合気道を、そして残りの人生を楽しむのがよい。つまり、「急がず回れ」である。