【第130回】 美

大先生(開祖)は、合気道とは真善美の探求であるとよく言われていた。私が合気道を知ったのは偶然の重なりによるものであるが、入門してすぐに大先生からこの言葉を聞いて、合気道に入門したのは正解だったと思ったものだ。当時、私は大学に通っていたが、あまり勉学の方には身が入らず、「人生とは何か」の解答を見つけるべく、仲間とほぼ毎日、喫茶店で議論をしたり、学校の近所の古本屋や神田で本を探しまわっていた。

一年ほどで、議論もつきたし、いい本も見つからなくなってきたが、そこまでの結論は、「人生とは真善美の探求である」であった。そして、これで生きていけばいいと考えた丁度その頃、合気道と出会い、合気道も真善美の探求であると開祖からお聞きした次第である。そこで分かったことは、生きることも、合気道を修行することも、目指すところは真善美であること。そうすると合気道というのは生きることであり、言うならば、合気道は人生の凝縮版ということになるだろうということであった。

合気道は技をくりかえし練習し、技を磨いて行くものである。技(正確に言えば、技遣い)が上達すると、合気道が求めているものがそれだけ分かるようになるように出来ているようだ。技が上手くできなければ、合気道のことはまだ分かっていないことになる。また技(技遣い)、動き、姿(態勢)が美しくなければ上達したとは言えないことになる。

技が上手いというのは、どんな稽古相手にも技が効くということであろう。技が効くということは、相手も自分もその技遣いに満足できることである。満足できる技遣いとは、レベルの高い真善美が含まれていることになる。少なくとも美しい技遣いでなければならない。

掛けた技がどれほどのレベルかは、見ればおおよそ分かるものだ。それは、美と言う観点から見られるからである。だから、技遣いは美しくなければならないことになる。技遣いで「美しい」とはどういうことかというと、一つには、多くもなく少なくもない動き「わざ(技遣い)」ということができるだろう。下手は必要な足遣いや手遣いをしないし、余計な動きをするのできれいな軌跡を描けない。

一つの軌跡は空間的な美ということになるが、もう一つは時間的な軌跡の美である。螺旋の動きである。大きく動き始めて、小さく収めるか、小さく初めて大きく収めるか、いずれにしても渦の動きである。この渦に気を入れると大きな力が出るとことになる。この渦は空間的な渦であり、時間的な渦でもある。開祖が言われるとしたら、「美とは宇宙のヒビキに合致したモノ」とでも言われることだろう。

自分の「わざ」(技遣い、動き)がどういうレベルにあるかを手っ取り早く知るのは、自分の「わざ」を観ることである。手足の動き、手足の位置、腹や顔の向きなどを観ることである。受けを取っているときは勿論のこと、技を掛けているときにでも、観ようと思えば観ることはできる。道場に鏡があれば自分の姿を見るといい。自分が思っているのと違った姿をしているものである。

技が上手く掛からないときは、どこかに不味いところがあるはずだ。不味いところとは、形が崩れていて美しくないのである。それを美しくすれば、そこは改善され、その分上手くいくはずである。上手く技が掛からないからといって、がむしゃらに何度繰り返しても、決して上手くいくものではない。同じ間違いを繰り返してやるより、美という観点から改善するのが早道と言えよう。まずは「わざ」の始と、「わざ」の収めの姿形、態勢を美しくすることから始めるのがよいだろう。