【第129回】 苦手の相手に感謝

合気道の稽古は相対稽古で二人組んでやるのが一般的であると思うので、これまでに稽古の相手になった人には、いろいろな人がいたはずである。相手になってくれた人には、やりやすかった人、技が効かなかった人、厳しく抑えられたり投げられたりした人等と、誰でもいろいろな人と稽古したことだろう。

一般的にいって、最もやり易い相手は、自分より一寸実力の下の人か同レベルの人であり、稽古のやり難いのは自分より実力の上の人であろう。しかし本当に難しい稽古相手は、受身もまだ満足に取れない初心者や、立つのがやっとという後期高齢者である。まずこの受身も満足に取れない初心者は、腕力で理に適わない技の掛け方をすると、受身を取る前に防衛本能が働いてしまい、くるっとまわってしまったり、背中を向けて逃げてしまったりするので、倒したり抑えて技を掛けるのは難しいはずである。初心者には正確に技を遣わないとできないもので、自分も相手も納得できるように技を掛けるのは至難の技である。

立つのがやっとという後期高齢者との稽古も難しい。体力があまりない相手と1時間、相手の息を上がらせずに稽古を続けるのも容易ではないのである。元気な相手とやるような稽古をしたら、後期高齢者は5分ともたない。1時間もたせるには、相手に合わせてゆっくりと技を掛けることは勿論のこと、相手の力を10倍に感じて反応するように受けを取ることである。この稽古ができれば、ほとんど誰とでも稽古ができるだろう。

稽古相手が自分より上である場合は、自分がやられてもいろいろ勉強になるので、稽古をやったという満足感は得られるだろうが、自分と同等か下と思われる相手に抑えられたり、自分の技が効かないと、誰でも一寸はオノレと思うだろう。そう思うことは当然だろうし、それがなければ進歩はないだろう。ただ、その後、この結果をどう整理して、活用するかが進歩をするかどうかの分かれ目となる。ある者は、あいつとやると思うようにいかないから、二度と一緒に稽古をしないと決めたり、あるいは、今度はあいつに負けないよう頑張るぞと思ったり、やられた相手の「わざ」を盗んでやるぞと決心したり、関節技で決められた関節をもっと鍛えようと鍛錬を始めたりと、人それぞれで違うことだろう。

合気道の稽古は試合をしているわけではないので、勝った負けたと考えるのは本来は間違いだが、人間だからどうしても相手と比べてしまうし、相手に負けたくないと思うのは自然であろう。しかし、稽古中に相手に勝とう、やっつけよう等と思ったり、または負けまいと思えば、そこには摩擦が起き、争いが起る。そうすると、時として受身を取る方が受身を取らないで頑張り、合気道の技で倒すことが出来なくなったりする。

相手が多少力を込めて頑張ってきたり、技を返してきても、相手に感謝すべきであろう。それは試練であり、一つの課題が与えられたと受けとめるのである。稽古から出てくる課題は、どうしても通らなければならないものであるはずなので、そこに課題が出てきたということや、課題を与えてくれた稽古の相手に、感謝すべきなのである。後はその課題のソリューションを見つければよい。課題、問題の解決は、それほど難しくはない。難しいのは問題を見つけることの方である。

問題解決法が稽古の場で見つけられない時は、稽古が終わった後の自由稽古や、それでも分からなければ、数日、数ヶ月、数年考えて見つけていけばよい。人はみんな違うので、稽古相手からいろいろな課題が貰える。それを真摯に受けとめて、一つ一つ自分で答を見つけて行くのである。はじめは小さい課題から、だんだん大きな、禅でいう公案となり、答えが出るまでに数年掛かっても解けないようなものがやってくるようになる。その前の小さな課題が解決していなければ、公案は解けない。だから、小さなものでも解き明かしていかなければならない。

一つの問題を解くと、次の問題が出てくる。問題と解決の繰り返しである。これが稽古の進歩、上達であろう。従って、やり易い人とばかり稽古をやると、問題が提供されないことになるので、進歩の機会を少なくすることになる。むしろ、苦手の相手とやった方がよい。苦手の相手と稽古をして、上手くいかなかったら、その出会いと、上手くいかずに宿題を貰ったことに感謝すべきである。