【第115回】 緊張

合気道は一般社会のさまざまな場所で、さらに世界の他の国々にまで普及している。だが、合気道が世に出てきた当時は、誰でも稽古ができたわけではなく、経済的、時間的な余裕があり、武術が必要な人か、武術に特別興味をもった人しかできなかったものだ。今では、ある程度の経済的、時間的、さらに体力的制約はあるものの、やろうと思えば誰でもできる。だから、道場では老若男女が稽古をしている姿が見られる。

一方、社会はますます忙しくなり、仕事でも学校でも誰もが緊張している状態といえるだろう。いつも緊張していると、その緊張を解きたくなるのが人間である。それで、会社の帰りに同僚と一杯ということになるだろうし、週末に散歩や旅行や山登りをしたり、またジムや道場に通って汗を流したくもなる。

最近は合気道の道場でも、息抜きにくる人がふえているように見受けるが、それもある程度は仕方がないことであろう。ただ息を抜き過ぎ、気を抜き過ぎて、怪我をしたり、させたりすることがないように、充分心配りをして、稽古してほしいものである。また、自分が気を抜くだけでなく、他人に影響を及ぼさないようにしてもらいたい。会社や世俗の話を道場でぺちゃくちゃされたのではたまらない。

緊張を欠いた稽古をすると、時として思わぬ怪我をしたり、させたりすることになりかねない。「空白の一瞬」というか、緊張が解けて時間が止まる瞬間があって、その後に大事故が起るものである。言葉を代えると、大事故の前には「空白の一瞬」がある。「空白の一瞬」が来ないように、いつでも緊張は必要であろう。

緊張には、よい緊張と悪い緊張があるようだ。悪い緊張とは、所謂、冷や汗が出るような緊張であり、よい緊張とは適度にアドレナリンが出て、体と精神(こころ)を引き締め、最適に機能させる、つまり「やろう」という気を起こさせ、準備態勢をつくり、体とこころを最適に働かせるものである。合気道の稽古で上達しようと思えば、よい緊張を持ってアドレナリンを出すようにしなければならない。

人は本能的に緊張から逃げようとする。学校がなければどんなに幸せだろうとか、仕事をせずにすめばよいのになどと考えるものだし、できれば一日中、何もしないでゴロゴロしていたい時もある。特に高齢になると、この傾向が強くなるようだ。緊張を避けようと、どんどんやることを減らし、最後は自分からは何もしなくなったりし、これが極端になってくるとボケにつながる恐れも大いにある。

ボケにならないためには、多少の緊張が必要である。それも、心地よい緊張である。そのためにも、合気道の稽古を続けるのがよい。道場に行こうと決心することで緊張し、道場まで人や交通機関に緊張し、道場では稽古をする相手や相手の技に緊張する。しかし、稽古が終わって、緊張が解けたときの爽快さは格別である。緊張があったからこその、よい気分である。生きているという実感が味わえるし、ビールがこれほど上手く味わえるのも緊張のお陰である。合気道の稽古を続けて、快適に緊張していきたいものである。