【第115回】 テーマを持って稽古する

入門した頃や初心者の時は、先ず技の形を覚え、体をほぐし、合気の体をつくることになるので、道場に行って指導者にしたがって稽古をすれば、上達するものだ。しかし、技の形を覚え、体もある程度できてくると、そこで停滞してしまう。一時、そこで目的がなくなってしまいがちだからである。上手くなりたいとは思うのだが、どうすればいいのか分からないのである。そして、大方は稽古をやっていればその内に上手くなるだろうと、期待をもって稽古を続けている。

上手くなるには稽古をしなければならないのは事実だが、稽古をやれば上手くなるという保証はない。稽古をやればやるほど上手くなるのなら、問題はない。上手くなるためにただ稽古をすればいいのなら、誰でも上手くなれるはずである。ところが、稽古をいくらやっても上手くいかないのが現実であり、何故上手くならないのか分からないのが一般的実情であろう。

合気道は技の形の稽古を通して、合気の道を求めるものである。技ができなければ合気は分からないし、合気道が求める本来のものに近づけない。唯の技であるが、されど技なのである。技を大切にし、慎重に稽古しなければならない。合気道の技は、新しい世界、魂が魄の上にくる世界へ入るための秘儀なのである。

「わざ」には、「技」と「業」がある。「技」とは相手を倒したり抑えるテクニックで、「業」はその「技」を生かすための体の遣い方と言える。「技」は合気道独特のものだろうが、「業」は武道や芸能に共通のものではないだろうか。

従って、合気道の「技」を上手く遣うためには、「業」ができなくてはならないことになる。「技」を遣うための体の動きができなければならないのである。歩の進め方、手足を連動して遣う、手足・体を陰陽で遣う、手・足と腹を結ぶ、息の遣いかた、息に合わせて動く、拍子に合わせる等々である。「技」はテクニックであるから、どうすれば相手を効率よく倒せるかを考えればよい。

「わざ」の稽古とは、「技」を覚えることも大事だが、「業」と「技」にある理を探し出すのが重要なのである。「技」が上手く掛かるためには、その理を如何に知っているのか、そして、どれだけ自分のものにしているのかに依る。

「理」とは、上手くなるための要因(ファクター)と言うことが出来る。稽古とは、この上手くなるためのファクターを見つけることと、ファクターを「わざ」に取り入れ、どんどん精錬・昇華していくことであろう。稽古でこの意識を持たずに、ただ動いていても行き詰ってしまうことになる。稽古では、上手く行かないファクターを自覚し、それが上手くいくような稽古をする。

例えば、「接点を動かさない」ということならば、これをテーマとして稽古するのである。道場では指導者がやるべき形を決めるので、ときによっては自分のテーマを研究しづらいこともあるだろうが、その時は自主稽古で試してみればよい。勿論、自分のテーマをその稽古でやり通すのはそう容易ではないはずだ。相手によっては自由にできないこともあろうし、対抗心が起り、本来やるべきテーマを忘れてしまったりすることもある。禅でいえば、公案を考えているところに悪魔の声が邪魔するようなものである。

ファクターを自得・昇華する努力と並行して、常に新しいファクターを見つける努力も同時に行なわなければならない。そうでないと進歩、上達はないことになる。

ファクター(理)を見つけようというテーマをもって稽古に臨む事が、大切である。