【第113回】 どこまで出来る

合気道の修行には、ゴールというものはない。晩年の大先生(開祖)でさえも、「まだまだ修行じゃ」と言われ、最後まで修行を続けておられた。ゴールに決して到達できないことを知りながら、そのゴールに向かって、ゴールに少しでも近づこうとしているのである。これはある意味で悲しいが、夢があるロマンである。我々合気道家はロマンチストといえるだろう。

若い頃は、相手を如何に倒すか、闘志をむき出しにして稽古したものだ。大先生の話もよく聞かなかったし、大先生の話が早く終わればいいのにと願い、早く稽古で体を動かしたくて、むずむずしていたものだった。全く不謹慎であったと思うし、なにも分かっていなかったと今は大反省している。しかしそれが若さということであり、洟垂(はなったれ)小僧と言われる所以だろう。

大先生は50・60歳は、まだまだ洟垂小僧とよく言われていた。その頃50歳に近い師範が指導されていたところで言われていたので、この偉い師範が洟垂小僧とは、とこちらが恐縮したものだった。しかし、自分が60歳頃になると、合気道のこと、自分のこと、世の中のことをほとんど知らないということが分かってきた。すると、いろいろ知りたくなってくるものだ。知らないということが分かって、初めて知ろうとするのである。自分は何も知らないということが分からないのを、洟垂小僧と言うようだ。

60歳を過ぎてから、合気道のこと、大先生の云われていること、自分のこと、世間のことなどが、少しずつ分かってくるようになる。また、生涯のテーマである、宇宙の生成化成、自分または人は何処から来て何処へいくのか、自分は何者なのか、などに対する答えのきっかけが微かに見えて来る。

合気道もそうだが、人が幾ら頑張っても、出来ること、分かること、得られることはほんの少しづつである。まさに、紙一重ほどの差である。一年経ってやっと厚紙、10年経ってダンボールぐらいの厚さではないか。だから、焦らず地道に努力を重ねていくほかない。10年経って振り返ってみれば、前に分からなかったことが少し分かるようになり、出来なかったことが出来たと思えて、それが喜びになる。そうなると、明日、1年後、10年後にどんな新しい積み重ねができるのか楽しみになり、明日もこれからも頑張ろうと思うのだ。そして、これが何処まで出来るようになるのか、何処まで分かるようになるのかが、楽しみになるし、また少しでも出来るよう、明日も更に頑張ろうと思うものだ。