【第105回】 遅いということはない

若い頃には誰でも、いろいろなことをやってきただろうと思う。やりたくてやったり、やりたくなくてもやらされたりして、結果としてはいろいろな経験をしたはずだ。

親の後を継ぐとか、家を継ぐということが決まっていれば話は別だが、だいたい若い時には、自分が何をやりたいのか、やるべきなのかなど、分からないものである。それ故、若者は親の心配をよそに、あれこれとやるのだろう。若いうちはいろいろとやりたいこともあり、エネルギーも有り余るほどあるし、それを消化する体力もある。ただ、金はなかなかないものだ。

高齢になってくると、経済的、時間的余裕はできるが、エネルギーや体力がなくなってくる。また、やりたいことも、若いときと違ってあれもこれもやりたいとは思わなくなり、思うことも思うように出来ないし、やりたいことも絞り込まれてくるものだ。

高齢期に入ったら、それまで生きてきた自分の整理と統合をし、総まとめをすることだ。残りの時間をどう生きるかを決め、これまでの俗世のことは忘れ、これからの新しい人生の目標に絞り込んでいくことであろう。そのために、自分の持てる時間、労力、体力、時間を、それに集中して注入することである。

高齢者になると、誰でも死を意識するようになる。誰もが必ず死を迎えることは知っている。ただ有難いことに、いつ死ぬかは分からない。死ぬ直前は多分ボケて複雑なことは何も考えないかもしれないが、その前の意識がはっきりしているときは、恐らく「自分の人生はこれでよかったのか」と考えるのではないだろうか。そうだとしたら、「これでよかった。十分やった。」と思えるようになりたいものである。

そのためには、高齢期に入ったら、自分の本当にやるべきことを見つけ、それに没頭、邁進すべきであろう。本当にやりたいことをやっていけば、それまでやってきたこと、経験したことが、不思議と全部生きてくる。これまでやってきた事に無駄なことは全然ないはずだ。失敗も成功もすべて自分の肥やしになっているのである。

これまでのすべての経験、体験、知識などをベースに、高齢期を新しく生きるわけだが、大事なことは、どこまで深く、その選んだ道を行けるかという挑戦である。深く入るということは、それだけ自分が探求するものを深く追求できただけでなく、自分というもの、人間、自然、宇宙などもそれだけ分かってくるということでもある。

自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかなどということに関心もなく、また、それが全然解決しないままで死んで行くのは悲しいことであろう。

合気道は高齢者が残りの人生を有意義に送れるための最適な「道」の一つである。合気道には、自分のこと、人間や宇宙のこと、人はどこから来てどこへ行くのか等の示唆がある。合気道はそのための秘儀であるとも言われる。合気道以外で、このようなことを教えてくれるものは、なかなかこの世には存在しないように思われる。

合気道の稽古に通っている高齢者には、若いときからやっている人もいるだろうが、高齢になってはじめた人もいるだろう。その人たちは合気道と縁があったわけだから、その縁を大事にすべきだろう。合気道には知りたいこと、知るべきことが豊富にある。今からでも、合気道に、自分の新しい人生を集中・統合し、新しい発見をし、最後に満足した人生であったと思えるようにしたいものだ。後で悔いないためにも、合気道に全身で飛び込もう。今からでもいい。遅いということはない。