【第104回】 自分の形(かたち)をつくる

人類は頭で考えること、感じること、言いたい事を、いろいろな動作で表現する。日常的な動作もあるだろうし、ダンスや踊り、また合気道のような武道でも動作で表現することになる。

動作は目に見える形で表われる。人はその形を見ることによって、その人が何を伝えようとしているのかとか、考え、思想、哲学も分かる。「かたちは心である」(玉木文之進:の吉田松陰の師)とも言われている。

合気道は、技の形(かた)を稽古する。技の数(正確には技の形の数)は無限にあると言われるが、基本の技はそれほど多くないだろう。しかし、この技は必然性があって創造され、余分なものが削り取られ、必要なものが補充されて完成されたものである。この伝統遺産、伝統文化、または宇宙のモデルといってもいい技を、我々は壊さず、正しく受け継ぎ、元のまま後世に伝えていかなければならない。

人は、万人が万人一人として同じ人はいない。人が違えば同じ技をやっても違った形になる。この違いが個性になる。つまり、技には、何人といえども元のまま、少しも崩すことなく身につけなればならない部分と自分の特長を生かして、ある程度自由にできる部分があると考える。私は仮に前者を「技」、後者を「業」(わざ)とし、この両者を合わせたものを「わざ」とする。

業は技を効率的にするための動き、体の使い方をいうことになる。しかし、この後者の業も、宇宙の法則に則っていなければならないが、その人の体系や思想、時代などによっても違ってくる。技は授かりものであり、変えることは厳禁である。これは合気道だけでなく、他の武道や武術ではやかましく言われることである。

「技の形」は二・三年も稽古すれば誰でもある程度分かるだろうが、その技だけでは、技は効かないものだ。初心者は技をなぞることが出来るようになったり、頭で分かると、技がかかると錯覚するものだが、技を効かせるためには業が必要になる。業ができないと技は効かないものである。同じ側の手と足を働かすナンバ、それを陰陽で使う、体の表を使う、肩を貫く等々の業が出来なければ技は効かないのである。

難しいのは、技は教えられても、業はなかなか教えられないことである。技は誰が教えても同じであるはずだが、業は教える人によって大きく違ってくるもので、人によっては正反対に教えることもある。技と違って、業には今のところ統一見解がないようである。

また、技は非常に繊細に出来ているので、よほど気を入れ、注意してやらないと、本当の技は身につくものではない。辛抱できないとパワーでやったり、我流になり、技が崩れてしまうことになる。例えば、力があり、体の大きいひとは技でなく、パワーでやってしまいがちである。パワーも業のうちであるが、業(パワー)に技が邪魔されないようにするのは中々難しく、辛抱が要るものである。パワーも必要なので、この技と業のバランスは重要である。

この技と業のバランスができているかどうかは、形(かたち)に表われる。技と業のバランスが取れれば、その二つは一緒になり「わざ」となる。「わざ」は上達してくれば、無駄がない、必要なものだけを備えた美しい形(かたち)になり、攻撃を受けても安全な形、多少のことではふらつかない安定性がある形になる。そして、その形(かたち)で螺旋で動く形をとり、打寄せて引いていく波の拍子の形を取る。そこに、合気の体と形ができてくるのである。

自分の修行の道が正しいかどうかを知る上で、最も容易で、最も厳しい判断基準は、「わざ」の「形(かたち)」といっていいだろう。変えてはならない「技」と個性の「業」から成る「わざ」から、合気の自分の形(かたち)をつくっていきたいものである。