【第102回】 形(かたち)をつくる

合気道の道場稽古では、一般的に師範や指導員が形(かた)を示し、その形を二人で組んで、受けと取りを交互に交代しながら稽古していく。示された形と違うことをやれば間違いだが、「わざ」はほとんどの場合、どうやっても間違いと言うことはないと言える。もちろん上手下手とか、そうやらないでこうした方がいいだろうということはあるが、間違いということではないだろう。本当にできる先生は、気が向けば直してくれるかも知れないが、大勢の中でよほど運がよくないと直してもらえないことが多い。今の稽古法は一人の先生が大勢の稽古人を見なければならないし、その稽古人が他の先生にも教わっているかも知れないしで、注意しづらいということもあるだろう。

それ故、稽古人は好きなように、やり易いようにやり勝ちになる。そして昔から言われてきた大事なことに気づかなかったり、無視したり、どうでも良いことに固守してしまうこともあるようだ。

誰もが上手になろうとしているが、それをどうすればいいのかがなかなか分からない。まず、上手くいかないのは何が問題なのかが分からない。踊りや仕舞などの一対一の稽古では、先生が問題を指摘してくれるが、合気道では通常その指摘が難しい。原則的に、問題は自分で見つけなければならないのである。さらに、その問題の解決も基本的に自分でやらなければならない。これは誰でもできる楽な稽古法であるが、反面非常に厳しい稽古法でもあるといえる。

自分の合気道の「わざ」(技、業、動き)に問題を見つけ、そしてその問題を解決してくれるものの一つに、形(かたち)がある。形が崩れ、美しくないのが問題であるとすると、その問題を正しく解決するためには、その形を美しくすればいいということになる。美しいということは無駄のないことであり、多すぎも少なすぎることもなく、陰陽バランスが取れていることである。また美は「真」でもあるはずなので、強く、説得力もあることになる。合気道は「真善美」の探求ともいわれるように、「美」も探究すべきである。まことの美は「真」と「善」と表裏一体であるはずであるので、「美」であることは、「真」と「善」でもあり、まことの「強」でもあるはずである。

自分がつかった「わざ」の形を見て、修正し、改善するのは、それほど難しくないだろう。何故ならそれは目で見えるからである。二人でやっているとき見るのが難しければ、その動きを一人でじっくりやってみればよい。必要とあれば、鏡に写して見るのがよい。そのためほとんどの道場には鏡があるのであろう。

美しい形(かたち)には、美しいための法則があるだろう。合気道の美しい形をするためにも、きまりがあるはずだ。稽古はそれを自覚し、その法則を探し、自分のものにしていくことである。例えば手は体幹の中心にあって脇で遊ばせない。身体を捻らず面で使う。手先を伸ばし、手は弛まず、折れない。手足はバラバラに動かず、腹と結んで切れないで動く。手は反転々々と螺旋で動く。所謂ナンバで動く。手足、体を陰陽で使う。動きや技を息に合わせる。また、時間を加えた形の美しさもある。例えば、「わざ」は渦の拍子で収める、等である。

自分の動きと技を見て、自分で評価し、自分で改善するわけだが、センスが悪ければ評価は甘く、十分な改善、上達は難しいことになる。従って、自分のセンスを磨いてレベルアップする必要がある。そのためには、合気道や武道の名人達人だけではなく、他の分野である能、日本舞踊、バレー、スポーツなどの研究も必要であろう。また自分より下手と思われる人の「わざ」を見るのも勉強になる。どこが悪いのか、なぜ形が崩れるのか等を見て、自分もそうならないようにするのである。反面教師である。

形(かたち)は、その人の思想と哲学を表すものである。また「形はその人の心」であるとも言われる。形を人前で見せるのは自分をさらけ出すことであり、相手を倒したとしても、自分の弱さを見せてしまうことになるかも知れないのである。形を見せるのは用心しないといけない。形を崩してまで技をかけるよりも、技がかからなくとも、美しい形を心掛けていけば、相手は倒れないまでも、心では参ったと思うかも知れないし、明日の自分に繋がるはずである。