【第80回】 生きがい

若いときは、いろいろやることがあるものだ。自分からやりたいと思うことや、学校や会社など社会でやらなければならないことや、やらされることが沢山ある。高齢になるにしたがい、やらなければならないことや嫌なことを、やる必要が次第に無くなってくる。定年を迎えれば、一般には社会とのそのような束縛が切れるものだ。定年になり年金を貰うようになると、それまでやりたかったことや、これからやりたいことが、なんでも好きにできるようになるはずである。

しかし、物事には裏表がある。高齢になると束縛が無くなり自由にはなるが、今度は束縛がなくなり、自由になることによって、問題が起きてくる。束縛は嫌だ嫌だと思いつつも、実際には束縛が生きていく重要な支点になっていたともいえる。その支点がなくなると、今度はどう生きていけばわからなくなってしまうことになる。

仕事で忙しく働いているときは、定年になったらあれもやろう、あそこにも行こうなど考えるが、いざ実際定年になって時間ができてみると、はじめは嬉々としてやるものの、だんだん何かをする意欲がなくなってくるようだ。

人は生きがいを持たないと満足して生きていけないし、幸せではないように思える。何処かへ出かけたり、食べたり、写真を撮って歩いても、何回かは楽しいし、自由を満喫するだろうが、その内にそれでは満足できなくなる。忙しく働いていたときの方が生きがいを感じていたと思うようになり、当時が懐かしくなるとともに、今の自由な束縛がない生活が寂しくなったりする。生きがいというのは、それをやったり、やっていると生きていると実感し、そのために頑張ろうとか、長生きしようと思うことであろう。

生きがいにはいろいろあるだろう。よく言われるのは「子どもや孫が生きがいだ」とか、「趣味が生きがい」とか、いろいろ人によって違うが、生きがいを持てるひとは幸せである。

我々合気道を修行しているものは、その意味においては幸せである。毎日修行をしていると、生きていることが実感できるし、明日も頑張ろう、とか、少しでも多く修練するために長生きしよう、と思えるからである。

生きがいをもつためには自分ひとりのためでもいいのだが、他人のため、社会のため、人類のため、宇宙のためなら、もっと大きい生きがいをもてるだろう。自分一人の幸せよりも、まわりを幸せにできたら、もっと幸せだろう。自分一人幸せでも、日本が滅ぶとか人類が滅亡することになれば、生きがいなどもてないはずだ。まず誰かが喜んでくれるような生きがいをもちたいものだ。