【第75回】 精神のない専門人 − 精神のある合気道人

今の世の中は益々ミクロ化し、専門化している。人は必要最低限のことしかやらないようになって、専門のことはよくわかるが、他のことは分からないし、関心も示さなくなってきている。学生は成績さえよければよい学生で、業績を上げればよい企業人とされる。そして、成績を上げるために、成績や入試に関係ない学科は無視したり、体操の時間を休んで試験の勉強をするようになる。企業では業績を上げるため、家庭や自分の体を犠牲にしたり、法に触れるようなことまでやったりしてしまうことにもなる。子どもは成績に直接関係ない本はあまり読まなくなるし、大人も仕事に関係ないことに時間や労力を割かなくなってきている。

先進国に生きている人は、ますます専門人にならなければ競争に打ち勝つことができず、自分たちの世界を狭いものにしている。狭くなるというのは、自分の学業や仕事以外のことに興味を持たないだけでなく、学業や仕事に心を失ってきていることである。

20世紀初頭に活躍した「社会学の祖」といわれるドイツのマックス・ウェーバー(写真)は、当時、流れ作業を導入して大量生産を行い、近代資本主義がもっとも先鋭化していたアメリカを見聞して、その姿の中に「精神のない専門人」を見るのである。精神とは、心である。「精神のない専門人」とは、心が欠けた専門人である。つまり心がない仕事をするということである。心がない仕事をすると、その仕事の結果は人のためにならないだけでなく、害をもたらしかねない。儲けることばかり考えるようになり、法にふれるようなことまでやってしまうのである。

精神のない合気道人になってはならない。合気道はスポーツのように相手と勝負をするものではない。相手ではなく自分との戦いであり、自分への挑戦であり、自己完成を目指すものである。そのためには、初めはしっかりした体をつくり、力をつけなければならないが、肉体だけの稽古を続けるのは間違いである。鍛えた肉体を土台として、次は精神を鍛えなければならない。そして肉体の上に精神を乗せなければならない。これではじめて合気になる。精神がのっていない合気は、合気道ではない。合気道の技は精神、心の表れである。精神がなければ相手を納得させる技はできないし、自分も満足できないだろう。精神には、その人の人生観、思想、哲学が関係する。

肉体は魄の世界で、有限である。精神、心の世界は無限である。高齢になれば、有限の肉体だけではなく、無限の精神の修行をし、精神のある合気道人を目指すべきであろう。