【第663回】 道楽になってきた

大分前に一度書いた。本部道場や多くの大学で合気道を教えられていた有川定輝先生のことである。合気道は有川先生にとって何ですかと聞かれたのに対して、先生は、「道楽」だと言われたという。初めこれを聞いた時、「道楽」とはちょっと不真面目ではないかと思ったのだが、よく考えてみると、「道楽」とは、道を楽しむということで、長屋の八つぁん、熊さんの道楽とは全然違うということである。

先生の合気道の道楽観を聞いて、自分の合気道も道楽にしたいと思ってきたが、大分、道楽になってきたようだ。これも年を取ってきたことと、50年以上合気道を続けて生きてきたことによると思う。

道楽になってきたということは、まず、合気の道を確実に楽しんでいることである。また、合気道を修練することは、他のどんなことより楽しいから、時間も労力もお金も合気道にほとんど使っているし、そしてそれができることがうれしいのである。合気道が中心になり、稽古をしたり、論文を書いているが、食事や睡眠も生活パターンもこの道楽のため、すべて道楽が中心である。合気道で新たな発見があったり、出来なかったことができるようになったり、いい論文が書ければ、自分へのご褒美に、一寸贅沢な食事をしたり、また、そういう時はいい睡眠が取れることになっている。

年を取ってくると体力や根気や冒険心などが減退してくれるお陰で、若い頃のように、未知の世界にいってみようとか、新しい学問や趣味への挑戦心もなくなってくる。道楽の為に、食事や睡眠に気を付け、そしてますます道楽が本格的になってくることになる。
つまり、逆に言えば、他にやることがなくなってくるということである。若い頃これでは困るわけだが、これは年を取ることの有難さである。そしてますます、合気道が道楽になることになるわけである。

後何年この道楽を続けることが出来るか分からないが、有川先生のように、私の道楽は合気道であると、胸を張って言えるような道楽にしたいと思う。そのためには、これまで以上に、合気道馬鹿にならなければならないだろう。稽古はこれまで以上に深めなければならないし、合気道に関係のあることを更に出来るだけ勉強しなければならない。そして道楽に関係ない事を省き、多少義理を欠く事も厭わず、金太郎飴のように、どこを切っても道楽がでてくるような道楽人になりたいものである。
80才までにはそうなりたいものと思っているところである。