【第660回】 生き甲斐

最近、暗くて忌まわしい事件が毎日のように起こっているが、悲しいことである。それらの事件はニュースに取り上げられるだけでなく、モーニングショーやイーブニングショーなどで、専門家たちに解説されるが、どうも表面的な捉え方で、根本的なモノが欠けているように思える。人を殺したり、窃盗をしたのは、本人の生い立ちや性格が悪いからだとか、家庭や友人などに恵まれなかったからだったとか、会社や社会に裏切られたとか、恋人に裏切られた腹いせだったとか云々である。

これらの事件もそうだが、事件にはならなくとも、それに近い事は起きているし、起きようともしているはずである。事件が一つ起こったことは、その10倍、100倍の潜在的な事件に近い事が存在していると考えていいだろう。つまり、実際に起こった事件は氷山の一角で、その下にはその氷山の一角の何十倍、何百倍の潜在的な事件や事件に類するものがあるということである。従って、事件の数はそれほど多くはないが、その割には世間が暗くなってしまうのだろう。

世間が暗いとすれば、それは人が暗くするわけである。人が暗くなるから世間も暗くなるわけである。終戦後、食べ物も十分なく、物も不足していたが、日本は今の様には暗くなかったように思う。私はそれを経験上知っているが、嘘だと思うなら当時の写真でも見てみればわかるだろう。また、発展途上にある貧しい人たちを見てみるといいい。豊かな日本人より明るいだろう。貧しいことが人を暗くするのではないことがわかるはずである。

さて、今の日本人が暗い根本的な理由は何かという事である。それは「生き甲斐」だと考える。生き甲斐とは、生きているという実感ということになるだろう。この生き甲斐が持てないから、生きていく意味を持てないし、先への希望が持てないし、そしてどうなってもいいと自暴自棄になり、暗い世の中になるのだと思う。
生き甲斐を持てれば、今を懸命に生きるだろうし、そのために邪魔するモノと戦うだろうから、事件を起こすことも、無くならないまでも少なくはなるはずである。

生きているという実感を持つ「生き甲斐」の根本的原動力は何かというと、それは「自分が変わることではないかと思う。昨日と今日の自分がかわることである。
これは我々の修業している合気道の世界とも同じである。
合気道のやりがいの基本は、自分が変わることである。去年の自分の技が今年は変わったことであり、未来に向かっても変わっていくことである。自分が変わらなければ、合気道のやり甲斐は無くなり、暗くなり、時として大きな争いを起こしたりするのである。
稽古人は変わり続けている限り、本人自身は明るいし、周りも明るくするので、合気道だけでなく社会も明るくすることができるようになるはずである。

更に、今を生きるということは、過去に生きることでもあり、そして未来を生きる事にもなる。人が今だけでなく、過去にも未来にも生きているということがわかれば、さらなる生き甲斐を持つことができるだろう。死に対しても新たな気持ちを持てるはずである。
合気道でも、今の稽古を一生懸命やりたければ、過去の武道・武術界の名人や達人の教えや技をお借りし、学ばなければならない。過去に生きるという事である。稽古は今だけに通用するものでは意味がない。時が経ってしまえば価値が無くなるものでは世のためにならない。稽古は未来に繋がらなければ意味がない。未来の合気道を後進や世の人のためになるよう、彼らに喜んでもらい、さらにそれを未来に継承してくれるようでなければならないだろう。それをやっている具体的な分かり易い例としては、画家がある。いい絵は過去の遺産を土台にし、地域や民族に関係なく、今の人たちに感銘を与え、そして時に関係なく、未来の人たちにも感銘を与えようとしているはずである。
勿論、この典型的な例は、合気道を創られ、我々だけにでなく未来永劫継承されるものにされた植芝盛平翁である。
また、卑近な例では、子供を育てる喜びである。

忌まわしい事件が起こらないような明るい世の中をつくるためには、自分が物質的(経済的)と精神的に変わっていける、そして過去にも未来にも生きる事の出来る、生き甲斐を持てる世の中にしていかなければならないと考えている。