【第639回】 米粒の気持ち

合気道は、地上楽園・宇宙天国建設への生成化育のお手伝いをするための人を養成する研修所でもある。人は誰でも地上楽園・宇宙天国建設を目指して生きているのだが、それを意識しておらず、それ故、生きる意義を見出せなかったり、真の生きる喜びを味わえないでいるのが現状だと見ている。
合気道は、技の錬磨によって、この事を気づかせ、身につけさせ、そして社会に広めていくのも使命であるはずである。
しかし、現実では、合気道を修業している者にとっても、これに気づくのは容易ではないようであるから、もう少し時間が必要であろう。

人だけではなく、動物も植物、万有万物は、地上楽園・宇宙天国建設への生成化育のお手伝いしようとしている。子孫を本能的に残そうとするなどはそのいい例である。

人は動物や植物を食べて生きている。言ったみれば、人は動物や植物を殺して生きているわけである。だから、人は食事の前に、食べ物に対して手を合わせ、「いただきます」と、食べ物にたいする感謝と懺悔のための祈りをするわけである。
しかし、合気道的な考え方は少し違うと思う。「いただきます」の意味が違うという事である。
感謝と懺悔のための「いただきます」では食べ物がかわいそうである。

食べ物に出てくる動物や植物も、先述のように使命を持っている。地上楽園・宇宙天国建設のためのお手伝いである。そのために一生懸命に生きているはずである。
人もその使命がある。人が食事をするのは、その使命を果たすためであり、食事を取ることによってその働きができるのである。だから、食事をする際は、その食物(動物や植物)との出会いに感謝すること、そして、地上楽園・宇宙天国建設の使命を果たすために、あなたの力を下さいとお願いするのである。そう念じて食べていると、体や頭にエネルギーが湧いてくるはずである。
動物や植物、とりわけ調理された動植物が、その使命を率先して果たしていくのは不可能な訳だから、その使命は人がやることになり、動物や植物は人の手助けをすることになるわけである。
食べる人が、その使命を少しでも果たせば、食物の動物や植物は、それまでの苦労も忘れ、これで俺も地上楽園・宇宙天国建設に少しでもお役に立てたと満足し、これで俺の使命も果たせたと往生できることになるはずである。

だから、もし、食べ物が食べられずに残されて捨てられたりすれば、残された食べ物の動植物は、せっかくここまでたどり着いたのに、捨てられてしまい、使命を果たせず、地上楽園・宇宙天国建設のためにお役に立てず残念無念ということになるだろう。

例えば、御飯つぶ一粒でも、地上楽園・宇宙天国建設への生成化育のお手伝いをしようと頑張っているように見える。米粒一粒でも、共に使命を果たせるように、米粒の気持ちを大事にして、いただきますと手を合わせ、米粒の力を借り、共に、地上楽園・宇宙天国建設への生成化育の使命を果たしていきたいものである。だから、一粒の米粒も残してはいけない事になるのである。愛である。