【第637回】 祭の意義

年を取ってくると、お祭りのよさがますますわかってくる。テレビで紹介される祭りでも心躍る。笛や太鼓や三味線などのお囃子があり、踊りがあったり、また、勇壮、絢爛豪華な山車が出たりし、子供も大人も祭に相応しい衣装を着け、お化粧をする。見物人達も、日常とは違った時間と空間に入って、楽しんでいるのである。祭りは今でも人の心を十分に高揚させるが、昭和初期、大正、明治、江戸・・・などの祭りは、今よりもずっと動を感じるモノであったはずであり、みんながその祭りを、今以上に大いに楽しみにしていたはずである。その理由は、日常生活が今より静であったはずだからである。

若い頃は、祭りにあまり関心がなかったから、祭りの意義も考えなかったし、分からなかった。しかし、年を取ったせいか、祭りの素晴らしさと、重要性が、身に染みてわかってくる。これは年のせいだけではないだろう。合気道を修業してきたお蔭でもある。合気道の教えに則った現象であるから、実感できるのだと思う。

合気道の教えには、人には喜怒哀楽、地上には春夏秋冬と四季がある。世の中のモノすべては、このような相反するもののバランスにより、そして表裏一体で生成化育を繰り返していると教わっている。いくら喜と楽がいいといっても、怒哀も無くてはならないのである。また、春が好きだから、春だけでいいというわけにはいかない。夏や冬があるから、春の有難さや素晴らしさがわかるのである。

人にも、このような相反するモノは必要である。いいと思っても、その一方のモノだけでは不完全であり、満足できる生き方はできないのである。相反するモノが裏と表の表裏一体とならなければならないのである。

祭とは「動」である。この動の祭りに対しての日常は「静」である。静の日常に祭の動が入るので静と動のバランスが取れ、満足できる暮らしができるのである。
人は静だけでは生きる喜びを感じられないものである。現代社会は、静を求め、動を敬遠する傾向にある社会のようだ。体をつかわずに少しでも楽をしようとしたり、やらなくてもいいことは極力やらないようにしたり、やるべきことも最小限にしたりする。

今、問題になっていることに、老人の引き篭もり、若者が突然切れることがあるが、これも静と動のバランスの不均衡にあると考える。動が不足しているために起こっていると考える。
こういう老人や若者が、動の祭りに参加すれば、きっと問題は解決されると思う。恐らく、祭りの盛んな地域では、引きこもりの老人問題、切れる若者の問題は、皆無か非常に少ないはずである。

これまで継承されているお祭りを残し、亡くなったお祭りが復活し、静と動のバランスの取れた人、そして幸せな社会ができればいいと願っている。
お祭り万歳。