【第618回】 価値の逆転
今の日本はモノが豊富で、モノに溢れている社会になった。モノを大量に、そして容易につくっている。モノをつくることは難しくないが、そのつくられたモノを処分するのが大変になっている。我々の子供時代と雲泥の差である。当時は、戦後といわれる時代で、モノ不足で、モノがあれば何でも売れたから、如何に作るかが重要だった。原料はない、製造設備もないわけだから、モノは中々できなかったわけである。
資源も原料もなかった当時は、鉄くづや銅などの金属、紙などを屑屋が家々をまわって、目方で買い取っていたから、つかわなくなった金属や紙を買ってもらい金に換えた。
今はどうだろう。まったく逆になった。金属でも紙でも金をもらえるどころか、お金を出して処分しなければならなくなった。
子供の時代から60年と約半世紀ほどしか経っていないわけだが、価値基準は変わったどころか、逆転していると言えよう。
順不同であるが、気になる事を幾つか書き記してみると、
- 金を稼ぐのは以前と比べて容易になったが、金を使うことが難しくなったように見える。問題の根底に、金はなるべく使わずに貯めて置くがあると考える。確かに衣食住のためのお金は貯めておかなければならないだろうが、これも含めて、金は自分と家族の精神的と肉体的の向上のために使うために稼いでいることを忘れてはならない。金が幾らあっても上手く使わなければ自分を変えて行くのに役立たない。成金が尊敬されない理由もここにあるのだろう。
- 私は貧しい時代での入手困難だったモノへの憧れが最近まで続いたが、モノが氾濫するようになったせいと、高齢者になったせいで、モノには価値を置かないようになってきた。どんなに立派で豪華な車や住まいを見ても全然羨望や興味は起こらなくなった。興味を持って目を向け、感動するのは人の心である。100才以上の高齢者の話し、子供たちの素直な喜怒哀楽の表情や態度などに、ほほ笑んだり、涙を流す。
- 見えるモノより見えないモノに価値を置くようになってくる。これは合気道の教えと修業によると考える。合気道で技の錬磨をしていくと、初めは見えるモノに頼るが、段々と見えないモノの重要性がわかってくるものである。例えば、始めは腕力や体力に頼るわけだが、段々と息、気、天地の呼吸、天の浮橋等‥を重視するようになるのである。
日常生活での例としては、上段にあるように、モノよりも心ということになる。
- これは高齢になったための価値の逆転だろうが、将来の社会や世界もこうあるべきと期待しているところである。
それは、若い頃は仕事でも稽古でも他との戦いであったが、今度は自分自身との戦いになる。これも合気道の教えであるが、一般生活でも、世界にも広がってくれればいいと願っており、これを指導するのは合気道家であると思う。そういう世の中になれば、開祖も目指されておられた活気がある、平和で安全な世界になるはずである。
- これまでは自分のために頑張り、自分が成功すれば喜びを得ていたわけだが、高齢者となってくると、自分が喜ぶだけでなく、他人も喜んでくれることによって、更に喜ぶことができるようになってきた。つまり、他人が喜んでくれることが、自分の喜びになってくるわけである。
このように価値基準は、世間が変わる事とそして己が変わることによって変わっていくようである。この逆転の変化を見極め、それに乗り遅れず、できればその先取りをしていきたいものである。
因みにもし、価値基準が変わらず、つまり絶対的な価値の基準があれば、その基準に合わせて何事も処理できるわけだから楽ちんなわけだが、そんなものはないことは学生時代に、学友たちと一年間激論して分かったことである。
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