【第584回】 自分と外に出たもの

年を取ってくるに連れて、自分の無知がわかってくる。自分の知るべきことを知らないということである。スマホやゲーム、ITの高度な知識、また、世間では誰もが知っているような有名人や商品なども知らないが、そのような事は興味がないし、知りたいとも思わないから、この無知には関係ない。

しかし知りたいと思っていても、通常は何を知りたいのかが具体的に分からないわけである。それに気づくのは、その知りたいものに出会って、これは大事なことであるとわかって、はじめて認識するというものであるからである。
だから、その出会いの場をつくって置くことと、そして知りたい事、知るべき事を強く求めていることが大事であろう。

まず、出会いの場をつくって置く例として、本を読むことであろう。新聞にはいろいろな書籍の紹介や宣伝があるから、それを見ていれば、自分の興味がある本の紹介に出会うから、それを購入すればいい。
また、本屋さんやブックオフに入って見れば、本が話しかけて来て「これがいいですよ」と言ってくれるかもしれない。
勿論、新聞やテレビもいい出会いの場を提供してくれる。

次に、知りたい事、知るべき事を求めていることである。これがなければ出会いは素通りしていく。例えば、合気道を精進するとか、自分の使命を果たすためとかである。

最近、私の敬愛する養老猛司先生の『「自分」の壁』(新潮新書)を購入して読んだ。この中に、人間の脳は「えこひいき」であるということが書いてあり、非常に勉強になった。その文章は、「人間の脳、つまり意識は、『ここからここまでが自分だ』という自己の範囲を決めています。その範囲のものは『えこひいき』する。ところが、それがいったん外に出ると、それまでの『えこひいき』分はなくなり、マイナスに転じてしまう。だから、『ツバは汚い』と感じるようになるのです。もうお前は『自分』ではない、だから『えこひいき』はできない、ということです。」

この脳の「えこひいき」を自分なりに解釈してみると、脳は、「自分の中にあるもの」は、綺麗、価値がある、興味がある、そして「自分の外に出たもの」を、汚い、価値がない、興味がないと「えこひいき」しているということである。

所で、この『「自分」の壁』の文に興味があったのは、自分が書いている論文が正に脳の「えこひいき」であると思えるからである。私が合気道の論文を10年以上書いてきているわけだが、論文を書いている時は、脳がああでもないこうでもないと助けてくれて書いているわけだが、一度書いてしまうと、もうその論文には興味が無くなってしまうのである。例えば、一度書き上げてしまったら、読み返しなどはほとんどしないのである。これはいったん書き上げて出てしまった論文は、「吐いたツバ」のように、もう自分ではないと脳が「えこひいき」しているわけである。
これで一度書いた論文やその校正に気が乗らないわけがわかったのである。

これまで良くわからなかったことで、これに関係すると思われることがもう一つある。
かって合気道の開祖は、今日やったこと、稽古したことは忘れなさいと言われていた。折角、やったり覚えたことを忘れろとは理不尽ではないかと思ったが、開祖が云われることに理不尽などあるわけがないので、それがどうゆう事なのか考えてはきていたが、分からないままでいた。

これも、技として外に出てしまえば、その形になった技を脳(意識)は「吐いたツバ」のように「自分ではない」、価値がないとしてしまうのだろう。つまり、形に出てきたもの、現れたことにしがみついてはいけないという開祖の戒めということなのだろう。

また、「合気は言霊の妙用である」といわれるが、言葉に表したならば駄目だとか、遅いといわれるのも、脳の「えこひいき」によるもののように思える。