【第580回】 光る姿

幼児の顔は輝いている。幼児の姿は光に包まれているようだ。特に、親と一緒の時、友達と遊んでいる時などはみんな輝いている。
我々大人も幼児の時はみんなそうだったはずである。が年を取ってくるに従いその光は褪せてしまい、陰気になってくるようだ。
合気道の稽古を始めた頃は、幼児と同じように顔が輝き、その姿も光に覆われているものだが、稽古を続けて行くうちにその光が失われていく傾向にあるようだ。

合気道は己に光を生じさせる修業をしているわけだから、光を失っていくのは問題ということになる。光を失わないで、光るようになるにはどうすればいいのか考えることにする。

まず、合気道で光を生じるとはどういうことなのかを研究しなければならない。
光とは、幼児が発するような明るい陽気であり、目で見えるというより心で感ずる明るさと考える。勿論、霊能者がその光を見れば、輝く光に見えるはずである。この逆の光は暗い陰気である。
開祖は、この明るい陽気な光を生じるように修業しなければならないと言われておられるのである。明るくなければ合気ではないということである。
更に光とはどのようなものであるかは、次のその光の生じ方との関係で説明されるはずである。

それではどうすれば光を生じるようになるのかである。
開祖は、「光は五体のひびきから生じる」といわれ、そのためには○△□の鍛錬により光と熱と力を生じさせなければならないといわれているから、○△□の技の鍛錬をして響く五体に鍛えれば光る五体になるはずである。

また、「魂と血流が淨まると、肉体が立派な生きたすき通った光の肉体となる。これを創りあげなければならない」と言われるから、魂と血流を浄めなければならないことになる。魂を浄めるとは、まずは己の心・精神を浄めることと考えればいいだろう。それをどうするかは下記に述べる。
血流を浄めるのは、一生懸命に稽古すれば汗をかくわけだから血流は浄められる。稽古の後は、程度の差こそあれ、「肉体が立派な生きたすき通った光の肉体となっている」ものだ。稽古の後、道を歩いても電車に乗っても、他人はその光る肉体を感じているはずである。周りの人たちとの間合いは若干遠くなっているはずだし、周りの人の目がその光に敏感に気づいていることがわかる。

更に、「自我はなく、あらゆる執着を去って光となる」とあるから、自我をなくし、執着を去らなければならない。
合気道を長年続けて行くと、最初の光が失われていくのは、この自我と執着にあると思う。いつまでも初心の気持ちで、稽古をできる事や稽古をともにしてくれる人たちに感謝の心を忘れずに稽古を続けなければ光が失われ、陰気になり、顔付体つきも貧相になるわけである。

そして、「愛より熱も出れば光も生じ」と言われるから、愛も大事である。愛の稽古で光が生じるようにしなければならないことになる。

年を取って光を失うのは年のせいではない。合気道の原点に帰り、光る合気、そして光る肉体、光る姿をつくっていきたいものである。