【第579回】 高齢者の観光

先日、義理の姪の結婚式のために京都に行って来た。結婚式は祇園にある八坂神社で厳かに挙行された。天気もよかったせいもあったのか、大勢の観光客が参拝に来ていて、写真をバチバチ撮ってくれていた。
これまでになくのんびりと京都を堪能した。

以前の仕事をしていた時ならば、日帰りの旅だったろう。
のんびりとしたスケジュールで行動し観光をすると、これまで見えなかったことが見えるし、これまでの自分がやってきた同じことをやっている若者たちのことが見えてくるのが面白い。

東京に戻る日は、宿を早めに出て宿の近くの二条城(写真)を見に入った。流石に徳川将軍家と天皇家のものであっただけに最高の素材をつかい、装飾も作業も最高で、繊細華麗な建物、素晴らしい庭園である。
この後、東本願寺を見たが、堂々とし立派な建物であるが、二条城とは大分格が違う。

二条城には多くの観光客が個人、グループ、団体で訪れているが、目につくのは、ほとんどの人が写真を撮ることに夢中になり、その対照をじっくり見ていない事である。ガイドさんと回っていれば、ガイドさんが説明してくれるものを見るが、その他のモノには目がいかない。もったいない話しである。
私は写真は持っていたが、ほとんど写真は取らずにこの素晴らしい人類の遺産をじっくりと味わった。

自分も若い内はそうであったわけだから非難はできないが、年を取ってきたので、人は何故そのような見方をするのか、その原因は何かを考えて、後進や若者に伝えるべきではないかと考えた。

このように上辺だけを見て歩く観光は、デジタル社会の弊害の一つと考える。見たか見ないか、行ったか行っていないか、食べたか食べないかが大事で、見た内容、食べた内容は二の次になるからだと考える。特に、若い内の観光は、時間的・経済的な制限が大きいので、短時間で少しでも沢山の観光をしようとするし、せざる得ないわけだから、あそこに行った、あれは見た、あれは食べたでいいとなるのだろう。今思えば、それでは薄っぺらい観光になってしまうということである。

年をとっての観光、例えば、この二条城の観光であるが、モノをじっくり鑑賞するとともに、そのモノの心を観ればもっとおもしろいと思う。つくった人たちの心、つくられた経緯や理由などをみるのである。例えば、二条城では、防御、格式、威圧や体制・封建制度、身分制度・階級制度を保持しようとする苦心が見えてくるはずである。また、門や欄間の彫刻を良く見れば、つくった人たちが、天皇や将軍たちに恥ずかしくないモノをつくろうとしている意欲とともに、過去の職人や大工に負けないよう、また、未来の人たちにも評価されるモノをつくろうとしている心が見える。そしてまた、自分の最高のモノをつくろうと自分と真剣に戦っている心が見えてくるのである。

さて、われわれは「観光」という言葉を頻繁に何気なくつかっているわけだが、一度この意味をおさらいしたらいいだろう。合気道の技の名前と同じように、名は体を表すというから、その名の意味がわかれば、観光を更に有意義にできると考える。

「観光」とは、光を見ると書く。「光」とはこの場合、「光に照らされている美しく見えるもの。その有様、景色。」(角川新書・漢和辞典)であり、「観」は、見る(みる)と雚(かん)(ぐるぐるとめぐる意)と合わせて、ぐるぐる周囲を見まわす意。(同上) 従って、「観光」とは、光に照らされている美しく見えるもの、その有様、景色をぐるぐる回って見て歩くことということになろう。

二条城の後、京都駅まで二時間ほど掛けてぶらぶら歩いた。そして改めて歩くことが観光の基本だとつくづく思った。歩くといろいろな美しいモノ、面白いモノが目に入る。乗り物では見えないモノが見えるのである。地下鉄などにのったら地下の駅など点でしか見えないが、歩けば線で見える。時間と体力が許すなら歩くことである。
歩いたお陰で素敵な京料理のお店を見つけ、美味しい昼ごはんが頂けた。歩き万歳であった。