【第572回】 高齢者の自由

60才、65才になると大概の方は仕事をやめる。所謂、定年退職である。そしてHappy retireと同僚や家族に祝福されて、会社や仕事から解放され自由の身となる。勤めている間には、いいこと悪い事いろいろな事があるはずで、30年も40年も働くことは大変な事である。誰でも辛い時などは、退職したらあれをやろう、これをやろうと夢を見るはずである。
人が仕事を動かしている日本では、ポストが仕事をする欧米と違い、個人が長期休暇を取ることは難しいので、やりたい事は制限されてしまうので、その反動は大きいだろう。

定年退職すると、勤めていた時とは大きく変わる。その違いは「自由」になることである。会社勤めの時は、会社の目標に沿った仕事をし、そのための考えを持ち、時間と労力を使わなければならなかった。思考、時間、エネルギーなどの束縛であり、否自由を余儀なくされてわけである。
仕事から解放されると、それらの束縛はなくなり、「自由」になるわけである。

「自由」ほどうれしいモノはない。人間は少しでも多くの束縛から解放されて、少しでも自由になるのが夢であるように思う。歴史がそれを物語っているし、個人々誰でも願っているはずである。他国からの自由、金や財からの自由、時間からの自由等々である。それが証拠に、真の自由を享受し、生活をしている国や人が評価される。例えば、それは独立国であり、役行者や西行や兼好行使などである。

しかし、人は中々自由にはなれないものである。国でも独立国として自由が欲しいなら、軍備を整え、徴兵制を受け入れなければならないだろうし、人が本当に自由になりたければ、役行者などのように人間社会から孤立して暮らすしかないだろう。人が集まって生活するのは便利で容易であるからであるが、そのためには様々な決りや約束や妥協などの義務が必要になる。会社は給料を払ってくれるが、そのための代償として義務を果たさなければならないわけである。

さて、話を戻す。定年退職者は会社や仕事から解放されるので、自由になる。給料はもらはないが、それまで払って貯めてきた貯金や年金があるから、お金からの束縛もなくなり、自由になったと言える。会社に行く必要がないので、何時の電車に乗らなければならないし、何時まで出社しなければならないということを気にしなくてもよくなる。時間からも自由になる。

定年退職者を見ていると、その多くは退職後半年間は自由を謳歌しているようである。外国に旅行したり、長期の船旅をしたり、音楽会や展覧会を見て歩いたり、観光地を巡ったりして、自分がそれまで希望していたことを楽しんでいる。

しかし、退職後一年もすると様子が変わってくる。自由を持て余すようになるのである。その例は街に出てみればいい。多くの退職した高齢者が自由を持て余しているのを見掛ける。図書館や公の建物の休憩場所、デパートの休憩所には必ず自由を持て余した高齢者がいる。

若い時の自由は、不自由への対向であり、自由を求めるのは当然であるが、高齢者の自由はちょっと違うようである。若者の自由は不自由の自由であり、高齢者の自由は自由の自由を求めているのではないかと考える。
それが間違いだと思う。自由の自由などないからである。自由は不自由や束縛があるから自由なのであって、自由の自由なら、合気道的に云えば、宇宙ができるまえのカオスである。

本当に自由になりたい、自由に生きていきたいと思うなら、その対極の不自由をつくらなければならない。しかしこの不自由は、以前のように他から押し付けられるものではなく、自らつくる自由である。
お迎えが来た時に、自分は本当に自由に生きることができたと満足するためである。
例えば私の例であるが、何時まででも寝ていいという時間的自由に、毎朝、7時までには必ず起きるという決まりをつくった。そして毎朝、寝床の中で軽い「仙骨」運動をする。その後、ちょっと洗面をし、朝の稽古をする(小刀素振り、杖の杖無素振り、四股、柔軟運動、船漕ぎ運動)。
朝食を取る。仕事(火・木・日は論文原稿を書く、月・水・金はドイツに提出するレポートを書く)。水・金・土は道場稽古などである。
これを柱にして、自分の時間と金と労力を好きなようにつかっていくのである。勿論、必要があればこれらの柱だって崩すこともある。自由なのである。
お陰で、定年退職して本当に自由になったと実感している。

しかし、更に自由になりたいと思っている。そのためには、物や時間や労力などからの即物的自由ではなく、心や精神での精神的自由だろう。まだまだ心の自由は束縛されているし、自分で束縛しているようである。これを自由にしたいと思う。