【第567回】 年を取ってこないとわからない

若くて元気だった頃は、力がなく非力に見えたお年寄りを軽視していたようだ。
自分は若くて元気で、働き、稽古もできる。そしていつまでも若くいたいものだと思うとともに、人はずっと若くいられるような気がしていたものだ。だから、年寄というのは自分たちとは違う人種、異質のグループのように思い、自分とは関係ない人達と思っていたようだ。

還暦頃になると、体力が衰えてきたり、病気になったり、自分の非力さを感じるようになる。そして自分も年寄になってきたことを実感するようになるのである。

合気道の稽古を若い頃から続けているお陰で、何もしていない人から見れば、元気で若く見えるだろうが、稽古をやっている本人自身は、それまでの若さがなくなってきていることを実感せざるを得なくなっている。以前のような馬力はなくなるし、持久力もなくなってくる。若い頃のように、2時間、3時間もの稽古などできないだろうし、やったとしても回復するのに相当な時間がかかるはずである。

しかし、それは合気道の相対稽古で若者にやられてしまうということではない。そこには年の功という、力や体力に勝るものが働き、馬力や持久力のある若者を制したり導くことができるのである。

体力や力が年とともに減退してくると、まず、自分の非力さを感じるはずである。自分の力(腕力、体力)のそこでの限界と、将来の限界、つまり、これからどれだけ稽古をしても、己の力はせいぜいこのぐらいまでで、後は下降の一途であろうと感じるのである。

しかしながら、それと同時に、自分の内面からの力を知ることになるのである。まず、体を正しく、つまり法則に則ってつかえば、己の力を効率よくつかえるようになり、これまで以上の力が出ることがわかってくるのである。
さらに、体を正しくつかって稽古をしていくと、自分以外の力があることがわかってくるし、その効果もわかってくる。呼吸力とか気とか、天地の気とか天地の呼吸等々である。
従って、ここからが本格的な魂の世界の合気道の稽古ができることになると考える。

若い時の魄の稽古を一生懸命にやらなければならないが、それだけではいけない。次の本格的な魂の稽古に入らなければならない。しかし、それはある程度年を取ってこないとわからないような気がする。