【第561回】 50,60は鼻ったれ小僧

大先生は我々が稽古している道場にときどき突然お見えになり、合気道についてお話になったり、技を示されたりされた。稽古人たちは、正座をし、神妙に大先生のお話を伺ったり、技を拝見していたわけだが、大先生の技はもちろんのこと、大先生のお話はなかなか理解できなかったし、理解するのは不可能だと諦めて聞いていた。
しかし、不思議なことに、大先生の言葉は、理解できなかったし、理解できるとも思っていなかったので、左の耳から右の耳を素通りしているはずだが、耳に残っていたのである。しかも、どうも無意識のうちに、その意味をこれまで考えていたようである。
大先生のお話をお聞きしてから50年が経つ。

耳に残っていたその一つに、「50,60は鼻ったれ小僧」というのがある。つまり、50才、60才ぐらいでは、まだ何もわからない子供であるというのである。
正座をして神妙に大先生のその言葉を聞いているのは、われわれ学生の他に、年配の先輩、それにその時間を指導されていた師範も居られたわけだが、70才以上の方はおられなかったから、全員鼻ったれ小僧ということになる。私でさえ学校で勉強していろいろな事を知っているわけだから、鼻ったれ小僧ではないと思おうとしたぐらいだから、先輩や師範はもっとそう思ったはずである。その困惑した顔つきを思い出す。

あれから50年ほど経ったわけだが、大先生が言われた「50、60は鼻ったれ小僧」という意味がわかってきた。
大先生は、50,60は鼻ったれ小僧であると、われわれ合気道を稽古をしている者たちにいわれたわけだから、まず、50才,60才の合気道はまだまだ未熟であると言われているわけである。如何に力があって、どんなに相手も投げたり、決めたりしたとしても、50、60では未熟であるといわれるのである。
当時は、強いことが一人前という風潮だったから、強かった方々はみんな困惑したわけである。

それでは、未熟から一人前になるということがどういうことなのかを考えなければならないだろう。
私が見つけた答えは、合気道的な表現、大先生の言葉をつかえば、魄から魂の修業に入ることであると考える。腕力や体力の魄を土台にし、心(魂)を表に魄を裏にし、心が魄をつかう合気道にならなければならないということである。
この次元の稽古に入って、はじめて鼻ったれ小僧を脱し、一人前の稽古になるわけである。

まずは、力をつけ、体をつくらなければならないが、これが一人前になるための時期であり、鼻ったれ小僧の時期と云うわけである。
鼻ったれ小僧はまた、物質科学の時期であり、モノ中心の時期である。見えるモノを追い求め、モノに頼る時期ということもできるだろう。
従って、鼻ったれ小僧の次元から一人前の次元に入るためには、力から心、物質科学から精神科学、見えるモノから見えないモノの稽古に変えていかなければならないことになるだろう。
これは今になってわかってきたわけであるが、確かに合気道では、見えるモノの稽古から、見えないモノの稽古に入らなければ、合気の道にのり、そして進むことはできない。道にのらなければ、道を進むことはできないのである。

合気道で鼻ったれ小僧を脱していくと、通常の生き方、考え方も変わってくる。モノや見えるモノを追わなくなるし、興味もなくなってくる。大先生はお金や家や名刀に興味がなく、それを他人に惜しげもなくやってしまったと、『武産合気』に書いてあるが、このお気持ちがわかるし、己もそうなっていっていくようである。
また、それまでなんとも思わなかったことでも、感動したり、激怒したりするようになる。例えば、幼子の笑顔やしぐさをみると、自然で心がなごみ、笑顔になるし、この子たちのためにも頑張らなければならないと思う。逆に、いい歳をした者が、金やモノを目の色変えて求めているような姿には腹が立つし、滑稽さを覚える。
それに、これまでなんとも感じなかった、太陽、月、星、山、海、草木等々、自然の素晴らしさに感動する。
鼻ったれ小僧の時期はそうならなかった。

日常生活も変わっていくのは、これも合気道をやっているお陰だと思う。そして合気道と日常の生活が相乗効果で、鼻ったれ小僧の次元をはなれ、一人前の次元に入っていくことになるのだろう。この先に何があるのか楽しみである。