【第556回】 土台を見直す

最近は高齢者の活躍が話題になったり、また、高齢者が引き起こす問題で社会が騒がれている。高齢になって評価される人とその反対の人がいることになる。
そうなるのは、その人それぞれの事情があるだろうが、若者たちに高齢者になることへの希望を与えるような高齢者となりたいものである。

戦後の高齢者には、ちょっと近づきがたい威厳があった。近所の魚や屋
や八百屋、ご隠居など、子供たちが悪さをすれば大声で怒鳴っていた。今はそのような高齢者は見当たらない。また、今でも鮮明に覚えているが、小学校の友達で、家は板倉藩の家老の家で、御爺さんが健在であった。参議院議員も長年やられて、普段は優しいのだが威厳があり、近寄りがたい雰囲気であった。当時は、このような高齢者が沢山おられたように思うが、最近はトンとお目に掛からない。
その違いは、今と昔では社会の環境や事情が違うからだと思うだろうが、どうもそれだけではないと思う。

それは人が持つ“土台”である。その人が何を土台に生きているのか、生きようとしているのかということに関係していると考えるのである。

一般的に、人は学問、仕事、名誉、財産などを土台に生きているように思える。しかし、これらの土台は崩れることもあり、絶対的なものでもなく、完全には信用できないもののはずである。
今、社会で起こっている問題の多くは、これらの土台が崩れることから起こっていると思える。
だから、別の事を土台にしなければならないはずである。

“土台”とは、“絶対” とも言いかえることができるだろう。己が生きているための価値基準である。昔の武人や偉人が自害したのは、その土台を崩さないためだったはずである。

土台には、命を掛けるような土台もあるが、これ以外の土台もあるように思う。時間・年月と環境・境遇の変化による、変化の土台である。
例えば、学校で学ぶ時期、仕事で働く時期、家庭を持つ時期、そして仕事から離れた時期などである。
これらの時期々々でも土台を持ち、その土台の基に生きていくはずである。しかし、この土台は、この時期だけのもので、その時期を離れれば崩れていくはずである。もし、その土台にしがみつけば、土台共々崩れ落ち、右往左往することになる。高齢者になっても、学歴や会社(社名や役職)にしがみついたり、頼っているのは滑稽である。

高齢になっても崩れない土台、持ち続けられる土台、ますます堅固にしていこうと思える土台、つまり、先述の“絶対”を見つけなければならない。
また、出来れば高齢者になる以前にそれを見つけておき、そして高齢になってきたらその土台を見直しすればいいだろう。そのためには、“絶対”になる土台は、小さな土台ではなく大きな土台、己のある時期での土台ではなく己の時期・次元を超えた土台、人としての一時期的な土台ではなく人としての次元を超越した土台でなければならないだろう。

土台づくりのためには課題があるはずである。
因みに、私の土台づくりのための課題は中学生の時に始まった。それは「自分は何者なのか。どこから来てどこへいくのか」を死ぬまでに見つけること、そして“絶対”とは何かをお迎えが来るまで見つけることであった。

これを考えている内に、人生とは真善美の探究ではないかということになってきた。しかし、これが“絶対”であり、己の土台だという確信はなかった。

進学し、仕事に追われて、この課題と土台が霞んでいたこともあったが、これが支えになり、金欠病にもきつい仕事にも頑張ることができたと思っている。

そして合気道のお蔭で、この課題が解決され、そして己の土台が築き始められたのである。
合気道に入門して間もなく、開祖が「合気道は真善美の探究であると」と云われたのをお聞きしたことにより、自分の人生観と合気の道は同じだと思ったのである。つまり、合気道は自分の人生、凝縮した人生ということである。

更に合気道では、人も万有万物も宇宙楽園、地上天国完成のため生成化育のお手伝いをするために生をうけているのだという。そして、そのために人も動植物など万有万物はそれぞれその果たす役割があり、それを使命というのだという。
つまり、各自の使命こそ真の“土台”ということになるわけである。

これまでは確信できないでいたが、己の使命こそが真の土台であると確信できたのである。お迎えが来るまで、この土台の上で生きていくと同時に、この土台をますます堅固にしていきたいと思っている。