【第537回】 自分を変えていく

合気道の稽古をしていて、進歩が感じられなくなれば稽古はつまらなくなり、そして進歩が停止した時には稽古を終えることになる。長年、稽古仲間を見ているからそれがよくわかる。最近では、この人はそろそろ稽古に来なくなるだろうなと予測することができる。どんどん上達しているときに、稽古を止める人はいない。それでも止めるのは、経済的、家庭的、仕事上など他の事情によるはずだ。

とりわけ長年稽古をしてきた高齢高段者は、更なる進歩、上達は難しいのだろう。それまで蓄積してきた己の範囲で稽古ができてしまうし、またそれが一番と思って稽古をしたり、教えたりしているようだからである。

稽古仲間は弟子や生徒として、先生や先輩を、その強さだけを評価しているわけではなく、如何に変わっていくのか、どれだけ、どのように上達していくのかに関心があるのである。だから、先生であれ先輩である、変わらなくなり、進歩がなくなったら、彼らは興味を失っていくのである。
合気道の修行者、とりわけ、長年稽古をしている者は、最後の最後までどんどん変わっていかなければならない。勿論、高齢高段者が変わっていくのは容易ではない。それまでの次元と違った稽古をしていかなければならないからである。

自分を変えて行くことは、日常生活でも同じである。例えば、家庭でも、定年退職した主人が、それまでの世界にしがみついて、それがすべてでよしとする考えで家族に接していけば、家族は、これまで家族のために稼いでくれて恩があるといえど、尊敬しなくなるだろうし、話も聞いてくれなくなるだろうし、また更に、言う事成すことにすべて反発することになるかもしれない。

家族はご主人がそれまでどんなに一生懸命に働いてくれても、それはそれ、定年になったら、そこから新たな人生を進み、毎日、少しずつでも変わっていって欲しいと願っているはずである。定年後、奥さんはご主人に、日中は家にいないようにと言う、と聞くが、それはご主人に外に出てもらって、新しい世界を経験し、新しい発見をし、少しでも変わって欲しいという願いからのものと考える。

女房が自分の話を聞いてくれないとか、信用してくれないとよく聞くが、女房は女房で、主人がいつも同じことをいい、変わり映えのしないことに嫌気がさしているはずである。誰だって、いつも同じものを見て、同じことを言われていれば面白くないだろう。また、主人の狭量な世界での判断や結論で安心し、満足していることに反発を覚えているのである。

自分が変わっていけば、話すことも考えも、また、提案や結論も違ってくるから、今度は何を言ってくれるのか、どんな提案をするのか、また結論になるのか楽しみになるし、質問や提案や話もしたいと思うようになるはずである。

家庭で会話がないというのは、聞くまでもなく、初めからわかっているから、会話をする必要がないということだと思う。

自分が変わることが一番楽しい。自分が変われば、他も変わる。自分のまわりが変わって見えてくる。退屈などしない。