【第533回】 岡潔に学ぶ

最近、朝日新聞の「文化・文芸欄」で数学者の岡潔(写真)の紹介記事を見たが、いろいろ勉強させられる。
この記事によると、岡潔は(1901年生まれ、1978年死去)、生涯で公表した論文は10編だけ。本質的な結果以外発表しないという姿勢を貫いた世界的な数学者である。

  1. 岡潔は研究に対する思想が独特で、数学の本体は「計算」や「論理」ではなく、「情緒」の働きだという。文学も好み、漱石や芥川、芭蕉などの作品を愛読したという。そして数学教育については、「計算の機械を作っているのではない」と情緒を培うことの大事さを強調したという。
  2. また、本当に行きづまらないと大きな発見はないという。「本当に行きづまるためにはね、そっちを一旦指さしたら微動もしないという意志がいる。行きやすいところを選って行ったら、行きづまるということはあり得ない」
  3. 岡潔がこれほどまでに強い意志を持てたのは、フランス留学時代に出会った、考古学者の中谷治宇二郎との友情だったという。しかし、中谷はまもなく病に倒れ死去する。岡潔は「このあと私は本気で数学と取り組み始めた」と書いているという。
  4. 死んだ中谷は岡潔の、学問の深淵さに対してのみ謙虚さを保とうとする研究姿勢に対して「人を相手に学者になるのは易いが学問を相手に学者になるのは大変なことです」と書いている。
ここから学んだことを書いてみる。
  1. 合気道を稽古して精進したいからといって、合気道の稽古だけをやったり、どうすれば相手を倒すことができるのか、技が効くようになるかなど、合気道の技(計算に相当)や論理ばかりをやっても駄目であり、情緒の働きを良くしなければならないことになる。そのためには、道場稽古だけではなく、自然に触れたり、漱石や芥川、芭蕉などの文学作品を読むのもいいだろう。
    合気道の技をつかえる機械的な人間になるのではなく、情緒のある人、人間味のある人になっていかなければならないということだろう。
  2. 行きづまりと発見であるが、合気道の稽古は基本的には技の錬磨であるが、具体的に云えば、宇宙の法則に則った技の発見と技を身につけていくことである。これにおいて、合気道の稽古においても行きづまりがあるし、その後に必ず発見がある。規模や重要度は違うだろうが、岡潔と同じと思える。
    また、行きづまったからといって、やるべき事から逃げたり、道を外れたりすれば、外道、邪道になってしまい、行きづまることは避けられるが、目標には向かえないことになる。
  3. 理解者がいれば、強い意志で物事に没頭できる。合気道の研究もそうであろう。しかし、私の場合も、本気で合気道と取り組み始めたのは、その理解者(女房)が亡くなってからであるようだ。
  4. 「人を相手に学者になるのは易いが、学問を相手に学者になるのは大変なことです」を、合気道に当てはめれば、人を相手に強いとか弱いとか、上手いとか下手とかと稽古をしていくのは容易であるが、宇宙の真理(学問に相当)を相手にする合気道家になるのは容易ではないということになるだろう。
世に名が残っている人が言ったこと、やったことは多くの人に力や勇気や希望を与えてくれる。ますます勉強させて貰わなければならない。

参考文献 朝日新聞の「文化・文芸欄」(2016.5.)