【第512回】 篠田桃江と合気道

先日、NHKBSで103才の美術家、篠田桃江さんと104才の現役医師、日野原重明さんの対談番組があった。日野原医師は今から10年間の予定を書き込む日記をつけており、片や篠田さんは日記帳など持ったこともなく気の向くままに生きておられる、と非常に対照的な生き方、考え方のお二人という印象であった。

日野原医師もすばらしい生き方をされ、模範にさせて頂きたいと思うが、今回は合気道の開祖、植芝盛平翁と重なる考え方を持っていると思える篠田桃江さんの話と考え方を、彼女の印象的な言葉を拾いながら、合気道と重ね合わせてみたいと思う。

◯生きているかぎり、人生は未完性
篠田さんは、人は生きているかぎり未完成であり、人生は未完性である、という。人が未完成であるということは、作品も未完成であるということになる。

人が生きている間は、その人を正しく評価することはできない。その途中の時点で評価したとしても、未完成であり、時と共に変わるはずだからである。だから、人は死んでから評価されるわけである。作品も最後の作品が完成ということになるはずである。

合気道も稽古を続けているかぎり、未完である。稽古を終えた時はじめて完成ということになる。ただし、この完成というのは、己の最高点ということで、パーフェクトということではないだろう。
決してこれでよいと思わず、最後まで稽古に精進していかなければならない、ということである。

◯もっとよいものができるだろう
篠田さんは他人から見れば非の打ちどころのない作品を描かれるのに、どの作品に対しても決して満足はしていないという。次にはもっとよいものができると思う、というのである。

合気道でも、どんなによい技をつかったとしても、それに満足せず、もっとよい技を出すようにしなければならない、ということであろう。もうこれ以上よい技が出なくなれば、あとは稽古の修了か、お迎えがくることになるはずである。

◯アートというものが、いかに社会に普遍性があるか
篠田さんの描く書は、人種や地域に関係なく受け入れられている。そして、よいもの、美しいアートには普遍性がある、といわれる。人は人種や地域の空間、そして現在や未来の時間に関係ない普遍性を有している、ということにもなるだろう。

合気道も時空を超えた普遍性を有している。競争社会で競い合い、争っている社会だが、普遍性がある合気道で、アートで人の心を和ませることができるように、争いのカスを取り除くことができるはずである。

◯自然の成り行きに自分が乗っている
篠田さんは、気の向くままに、やりたいように、成り行きで作品を描き、生きているという。しかし、作品を描けばすばらしいのだから、ただ適当に描かれているわけでもないし、生きられているわけでもないはずである。

これは、合気道的に解釈すれば、道に乗ったということではないかと思う。合気道の目標と己を結ぶ道に乗った、ということである。道に乗れば、後はその道を進めばよい。あるべき事や順序は、誰かや何者かが導き、教えてくれるようである。これが自然の成り行きということだろう。

◯生かされていることの感謝
篠田さんは103才になられても、まだまだ更によい作品を描こうとされている。しかしながら、おそらく103才まで生きようとか、何歳まで生きようなどとは考えておられないだろう。結果として103才になった、と感謝されているのだと思う。自分ががんばってもどうしようもないことであるし、何かに生かされている、と思われているようだ。そして、生かしてくれる何かに感謝している、ということだろう。

合気道の開祖はよく、命は神様にお任せしているから、生き死には気にしていないといわれていた。そして、常に神様に感謝されていた。

100才まではまだ大分あるし、そこまでいけるかどうかも疑問である。だが、生かされているとすれば、自分で長生きしなければなどと悩まず、そちらにお任せし、悩まなくてよい分、自分のやりたい事、やるべきことをやるのがよいと考える。