【第507回】  弱いところからやられる

合気道の稽古を続けていると、自分のことや人間のことに興味を持つようになるものだ。自分の体や心を知ろうと思ったり、また自分を知るために、他人のことも知りたいと思うのである。

他人のよいところを学び、悪いと思われるところを避け、その原因を探したり、また、そうならないためにはどうすればよいのか、等を考えるのである。もし、地球上に自分ひとりしか存在しなかったり、まったく孤独な状態で生きているとすれば、他から学ぶことはできないわけだから、上達や進歩はないだろうし、善悪も分からないはずである。他人(ひと)は教え合い、助け合う仲間であり、いろいろ教えてくれる師なのである。

他の世界でもそうだろうが、合気道でも若い時は強いことが大事であった。強いところで弱さをカバーしたりしていたようで、若い時の稽古では強くなることが大事だった。それは稽古仲間も同じだったと思う。ある技(形)ができなくても、あるいは下手でも、自分の得意技に威力があれば、自分も他人もその得意技のレベルで評価していた。若い内はそれで自分はうまいと思ってしまうのであるが、実際には中身はできないことが多く、ひどい状態だったと思う。

稽古では怪我を繰り返していた。当時は坐り技が多かったので、よく膝小僧をすりむいたものだ。右の膝小僧を痛め、それが治ったと思うと次は左側を痛める、の繰り返しだった。まだ白帯だった頃は、袴をはくようになれば擦りむくことも少なくなるのではないかと思ったりしたものだ。しかし、そのうちに擦りむくこともなくなって、しっかりした膝ができてきた。

若い頃は多少の故障があっても、我慢してやっていけば克服できる。膝の擦りむきだけでなく、手首が痛い、肘が痛いなどなど、我慢して稽古を続けていけば治ってしまうものである。これが若い時の誇りであったし、他人もそれを評価していたと思う。

しかし、年を取ってそれをやると、今度はますます悪くなってしまうようである。若い頃にやってきたように、我慢してやればその内によくなると思っていると、必ずますます悪くなり、最悪、再起不能になることにもなる。

人間には各自、弱いところがあるし、稽古をしていればどうしても機能が思うようにいかないような弱い部位や、痛みを感じる箇所ができるものだ。特に多いのは膝、腰、肘、肩などのようである。若い時は多少痛くても、技の練り合いや受け身、得物の素振りなどしていれば治るものだが、年を取ってそれで治そうとすると、悪化してしまうだろう。肩が痛いというのに重い木刀を振って治そうとしたり、腰が痛いからと腹筋で治そうとするのを見かけるが、見ていてハラハラする。

年を取っての体の痛みは、体からの警告である。これまでのやり方でやっていくのは駄目だから、やり方を変えなさい、というメッセージなのである。この声を無視すると、体から見放されることになる。

体の痛みを取るため、そして、体を痛めないためにどうすればよいかというと、体の声をきくことである。すると、体はおそらく「体を部分だけをつかうのではなく、バランスよくつかってくれ」とか「体の手足の末端と中心を結んで、中心でつかってくれ」、「宇宙の法則である法則に則ってつかってくれ」等ということだろう。

若い時とは反対に高齢者の稽古人に対する評価は、がんばりではなく、弱いところや悪いところをどれだけなくしていくか、ということであろう。年を取ってくると、肉体的な上達はなくなるものだ。特に、年を取ってきての合気道は、他人ではなく自分との闘いであり、自分への挑戦である。弱いところ、悪いところが上達の邪魔になるのだから、それを取り除いていくことが上達につながるはずである。

また、武術的に考えれば、敵はこちらの弱いところをついてくるはずだから、そこを注意して治さなければならないだろう。弱いところからやられないようにしていかなければならないのである。