【第486回】  人の評価

若い頃には、あいつはだめな奴だなとか、あんな程度の奴なのかなどと、気楽に人の評価をしていたものだ。それにくらべると、大人たちや世間は生きている人の評価をあまりせず、主に死んだ人の評価をするのが不思議だった。そして、生きている人を評価すると、本人からクレームや反論があるかもしれないと恐れているからだろう、くらいに考えていた。

しかし、この問題も自分が年を取ってきたことで解けてきた。人の本当の評価は、その人が死んでからしかできない、ということである。生前にその人を本当に評価することはできないし、失礼なのである。

なぜならば、その人が生きているかぎりはまだ先があり、そこからどれだけ変わるか分からないからである。場合によっては180度変わったり、すばらしい花を咲かせないでもない。生きている人の評価など、できるわけがないであろう。

合気道の修業においても、人や技の真の評価はできないものだ。合気道の評価基準は、合気の道が求めている目標、課題にどれだけ近づいているか、また貢献できるか、である。相対稽古で相手より強いとかうまいというのは、その時その場の一時的な評価である。こういう一時的評価を重視しているのが、スポーツであろう。その時その場で、勝てば評価されるし、負ければ評価されないものだ。

もちろん、生前に評価される場合もある。一つは、偉大な仕事をした人の場合で、ノーベル賞や文化勲章など貰った時には、喜んで評価するだろう。もう一つは、できあがってしまって、自分の仕事は完成したと思う人に対する場合である。この場合は、この人はこの程度かとネガティブに評価されることになろう。

どんな人でも、人が生きている間は、人を真に評価することはできないものだ。どんなに今は駄目でも、一生懸命に努力すれば変わっていくことがわかっているのである。

私が多くの教えを受けた本部道場の有川定輝先生は、晩年、どんな初心者の挨拶にも、先生流ではあったが、頭を軽く下げて挨拶を返されていた。また、私のような未熟者を諦めることなく、ずっと導いてくださったが、それはその場、その時で人を評価するのではなく、将来の可能性に結びつけておられたからではないかと思う。

有川先生から見れば、我々稽古人は未熟もいいところで、評価のしようもないわけだが、それでも一生懸命に導いて下さったのは、稽古人の可能性を信じられたからだろう。だから、先生が大事にしたことは、一生懸命に稽古することであった。下手でもよいから、先生に教えられる通り、少しでも先生のやり方に近づくべく、やろうとすることであった。たとえ相対で稽古している同士が熱くなって、争いになっても、先生は、一生懸命に稽古している結果ということで、その争いを温かく見守ってくださっていたのが印象的だった。

また、逆に相対で稽古している古株が、相手の初心者にああでもない、こうでもない等と教えたりしていると、先生は烈火のごとく怒られた。ある場合には、そういう古株の手首を二教でへし折ってしまったほどである。有川先生からみれば、未熟なのに出来上がってしまっていたので、もうこれまでだ、という評価を下されたのだろう。今になると、その先生の気持ちがよく分かる。

そんなこともあったので、有川先生の稽古時間ほど緊張して稽古した時間はなかったといってもよいくらいであった。もちろん、大先生は更に更に緊張した。

我々の合気道にはノーベル賞も文化賞も期待できないだろうから、生前評価されることはないだろう。もし、生前評価されるようなら、それはネガティブな評価になるはずであり、その原因は、出来上がってしまうことにある。

生前に評価が下されることなどないように、そして、死んだ後に真に評価されるように、道を止まることなく、どんどん行けるところまで進んで行かなければならないだろう。