【第479回】  溺れるな、流されるな

「長生きするほどに、この世の中と隔たる」と103歳になられた現役美術家の篠田桃江さんはいわれている。100歳以上にもなるほど生きておられると、われわれとは違ったものの見方や考え方をされるようである。

その中の一つに、この世は最大公約数で成り立っているので、自分のように稀な長生きをする者のために動いてはくれないから、社会で生きる資格を失って、そして、もう役に立たないのではないか、と感じるという。

確かに、世の中は最大公約数で動いている。100歳以上を対象にした経済も文化も科学もない。100歳以上の人たちに照準を合わせた新聞、雑誌、書籍、電化製品、映画、音楽、スポーツなどもない。

今、世の中で活躍したり、これから世に出る人たちが世の中の主流であり、この世の最大公約数ということになる。そして、人はこの主流にのり、最大公約数になろうとし、反主流や最少公約数を避けようとするだけでなく、それを認めなかったり、批判する傾向にあるようだ。最大公約数の主流でなければならない、という訳である。親を含む他人もまた、最少公約数になるなという。

最大公約数に身を置けば安全安心であろうが、真から満足はできないのではないだろうか。例えば、今の日本の若者の最大公約数にある生き方であるが、学校を決められた年数で卒業し、そして就職、定年になって引退、というワンパターンである。これが主流であり、この流れに乗れば安心し、その流れに乗らずに外れれば世間では評価されない、というのだが、これは本人にも社会にとっても損であると思う。もっと、多種多様な生き方、学問の仕方、働き方があるはずである。

103歳の篠田桃江さんにはほど遠いが、これも年を重ねてきたおかげで分かってきたことである。また、篠田桃江さんもそのように思われているはずである。

ちなみに合気道の稽古も、最大公約数でやっているように見える。道場の指導者が示した最大公約数の稽古だけをやっているのである。最大公約数の流れに身を任せ、流されているのであるが、これは極端にいえば溺れているのである。

指導者の示すものは最大公約数の共通部分であり、基本ということである。合気道で技を使う場合、基本の技では相手は倒れてくれないだろう。みんなが金太郎飴みたいに同じだったらおかしいし、気味がわるいものだ。

合気道の技は人格の現れであるから、人それぞれで違うはずであるし、違わなければ不自然である。そのためには、最大公約数の稽古だけでなく、個人的、個性的な稽古をしなければならないことになる。つまり、自分自身に責任を持たせるような稽古、ということである。もちろん、これは容易ではない。指導者のやるよう、いうようにやる方が容易であるし、責任転嫁もできる。

最大公約数の中で生き、稽古をし、それに身を置き、そして流されていけば、103歳になった時、どんなことがわかり、どんな技がつかえるようになるか、考えてみる必要があるだろう。

これを機に、改めてこの世の中とは隔たっていても仕方がないことを覚悟し、最小公約数の中で生きていこうと思う。


参考文献  「一〇三歳になってわかったこと」篠田桃江著 幻冬舎