【第477回】  合気道の聖典を読む

合気道を修業する稽古人は、形稽古のほかに、合気道に関する書籍を読んでいるはずである。少なくとも、合気会公認の書籍は購入していることだろう。私もそのほとんどは持っているし、一度は目を通し、また、時に触れて見かえしたり、調べ物をしたり、確認したりしている。

その内でも、『合気神髄』と『武産合気』は別格である。もう少なくとも10回以上は読んだと思うし、この両書を「聖典」と思っている。

少しずつ解ってきたものの、まだまだ分からない事が多くある。おそらく、合気道の修業が続く限り、何度も何度も繰り返し読み続けていくことになるだろう。「読書100篇、意自ずから通ず」である。

おそらく合気道を真剣に修業しようとする稽古人なら、一度はこの聖典を購入し、目を通したことだろう。しかし、おそらくは一度目を通しただけで本棚の肥やしになっているか、ちょっと読み始めただけでそのままになっているのでないだろうか。

なぜかというと、開祖が心血を注いで合気道の思想、哲学をまとめられたこの聖典にあることが、日頃の稽古や演武会などの技に表れていないようだからである。例えば「合気はまず、天の浮橋に立たなければならない」「技は円の動きのめぐり合わせである」「技は、すべて宇宙の法則に合していなければならない」「魄の世界を魂の世界にふりかえる。魄が下になり、魂が上、表になる」等々などが、技に見受けられないのである。

この聖典を読むのが難しい理由としては、難しい合気道のことを書いているのだから当然ではあるのだが、そこに使われている言葉も通常のものと違って難解なこともある。

また、時間と空間を超越、つまり、宇宙が始まる時から宇宙完成の超未来まで、そして顕幽神界を自由に行き来したりするためでもある。従って、現実世界で、物質文明の魄の目で読んでも、理解が難しいのである。

しかし、この聖典が分からなければ、合気道もそのレベルまでしか解らないことになるので、少しでも解るように努力すべきであろう。

初めは難解でほとんど解らなくても、一度読めば1つ2つは解るだろう。二度読めば、それを元にさらに3つ4つと増えていくものである。読めば読むほど増えることはあっても、減ることはないはずである。これも、宇宙の法則だろう。

この合気道の聖典は難解な本であっても、他の書籍とは大きく違い、合気道の精進と、人としての成長のために、具体的に導き、多くの教えを示してくれるものである。

ただ、この聖典の読み方は、一般的な書籍と大きく違っていなければならない。通常の書籍は頭で理解できれば解ったということでよいだろうが、この聖典は違う。合気道で解るということは、それを技で示すこと、つまり、技に表わすことができて、はじめて解ったことになるわけである。だから、聖典で読んだことを、相対稽古で技で試すのである。それで技が効けば、聖典のその箇所が解ったことになる。

聖典を繰り返し繰り返し読んでいくと、自分の実力にあったところが解るようになるものだ。そして、少しずつではあるが、聖典が解るようになり、そして技が身につくようになる。つまり、聖典を読んでいくことによって、技の上達があり、合気道が精進できるようにできている、と確信する。だから、『合気神髄』と『武産合気』は聖典であり、合気の道を精進するためのMUSTなのである。