【第474回】  高齢者の生き甲斐

日本には100才以上の高齢者が3万人以上いるという。平均寿命もほぼ80才ぐらいで、人はますます長生きするようである。

街で多くの高齢者を見かけるが、いつも気になるのは、満足顔の高齢者をほとんど見ないことである。彼らは仕事から離れ、時間を潤沢に持ち、しかも自由に使うことができて、年金や貯金等で経済的にも安定しているはずなのに、生きている喜び、高齢者の喜びを感じることができないのである。

それと対照的なのは、幼い子供たちである。生きていることを体ごと楽しみ、光り輝いている。見ていても気分がいいし、見ているこちらもうれしくなり、彼らが生きていることのすばらしさを感じる。

一生懸命に働いている若者や学生達は、もはや幼い子供たちのようには輝いてはないが、彼らを取り巻く環境のせいとも思えるので、ここでは考慮外ということにする。

さて高齢者であるが、本来もっと満足して生きてよいはずなのに満足できてないのは、何か根本的、普遍的な要因と原因があるように思える。高齢者の満足、不満足は、金があるとか、物持ちであるとか、名声等々にはあまり関係がないように思える。

我々は戦争に負けて終戦後は貧しい生活を過ごしたのだが、当時の近所の高齢者は立派だったように思う。だれもが高齢者に敬意を払っていたし、あのようになりたいと思っていたものだ。彼らは高齢者であることに誇りを持っていたし、若い者を叱ったり褒めたりして、温かく見守ってくれていたと思う。

現代でもテレビや映画やインターネットの映像で、貧しい発展途上国の高齢者を見るが、やはり威厳があって、若者を見守ったり、導くという使命を自覚しているようであり、そして、若者たちに敬われ、慕われているように見える。

日本は戦後70年を経て豊かになったわけであるが、社会が発展するために、合気道でいう多くのカスが溜まったということであろう。高齢者の顔を曇らせたり、生気を失わせるのも、そのカスのせいだろうから、カスをとりのぞかなければならないと考える。

国もそうだし、人、高齢者もそうであるが、これまでに溜まったカスを取り除かなければならないということは、簡単にいえば、本来の姿にもどすことであろう。これを合気道では「武」といっているわけであるが、宇宙楽園のための生成化育を妨げるものを取り除いていくように、己の自己完成へ向けての生成化育を妨げるカスをも取り除き、生成化育の運行にのせることであると考える。

人はこの生成化育で運行しているときには、深刻な不満はないはずである。勉強したり、仕事しているときには、無意識であろうが生きていると感じ、がんばって生きようと思っているはずである。

勉強や仕事を一生懸命やることは、社会のため、国のため、人類の為になり、引いては宇宙楽園建設の一端を担うことになるわけであるから、それを無意識のうちに感じるのだろう。

暗い顔をした高齢者、不満足な顔、光らない高齢者は、この生成化育の運行から外れてしまっているのではないかと思う。外れてしまって、生きていく運行が止まってしまったのである。「宇宙生成化育の大道は止まるところがない」から、止まってしまうのは宇宙の法則に違反することになる。だから、自分の生き甲斐、なんのために生きていけばよいのか、何をすればよいのか、が分からなくなるのである。リュックを背負って山を歩き回っても、カメラをぶら下げて街を歩き回っても、旅行に出かけても、満足できないのである。

光る高齢者になるためには、宇宙楽園、地上天国建設のための生成化育のお手伝いをすることである。人はそのため、誰でも使命をもっているし、やるべき事、できることがある、と合気道では教えている。

例えば、高齢者にしかできない事としては、若者に自分たちが経験したことや知恵を伝えたり、過去と今をつなぐ役割を果たしたり、自分の得意なことを後進に伝承したり、また、孫や子供を育てたり、教育するのもよいだろう。もちろん、無償のボランティアで働くのもよいだろうし、有償の仕事でもよい。大事なことは、自分がやることは宇宙生成化育のためである、と信じることである。きっと顔が生き生きとし、そして、光ってくるはずである。

合気道の稽古でも、自分の稽古も大事だが、後輩が知らない、そして知っていた方がよいと思う過去の事を伝えたり、自分が見つけたことを教えたりすれば、光る合気ができる高齢合気道家になれるだろう。

しかし、最も大事な事は、一生懸命に稽古を続けることである。それが生成化育の運行に乗ることであり、後進への最高の教えとなり、光になるはずである。