【第466回】
若者を見ていると
誰でもそうだろうが、自分では若い若いと思っている内に、いつの間にか年を取って、年寄のグループに所属するようになるものだ。年寄になったと思うのは、体力や食欲がなくなって、若くないことを自覚する時もあるだろうが、若者を上から目線で見るような年になる時だろう。
だが、女性がよくいうように、若返りたいとか、娘時代にもどりたいなどという考えは微塵もない。年寄万歳である。たとえ神様が若い時代にもどしてくれるといっても、お断りするだろう。これまでの人生は運と偶然のお蔭だった、と思うし、おそらくこれまでのような運や偶然はもうないだろう、と思うからである。
自分が若い頃、若者とは自分の競争相手であり、仲間であったわけである。だが、この年になると、若者はもはや仲間でも競争相手でもなく、別次元の人ということになる。若者を見ても、ライバル意識をもったり、羨ましいなどと思うことはなくなって、逆にこの若者たちの悩みや問題が分かったり、何とかしてあげなければならない、と思うようになるものだ。
若者というのは、つまりは自分がたどって来た道であるから、若者のことはだいたいわかるつもりである。
今では若者を見ると、次のように感じたり思ったりするのである。思いつくままに書いたので、脈絡はない。
- がんばっているけど、その先にもいろいろあるぞ。負けずにがんばれ!
注)勉強でも仕事でも、うまくいったとしても、その先に何があるかはわからない。たとえ失敗しても、先につながる道は必ずあるし、失敗したことが、結果的によかったことになるかもしれない。良し悪しなど、年を取らなければわからないものだ。
- カッコつけるな、外見だけに頼るな!
注)若い頃は、化粧や服装や装飾品などに多くのエネルギーを使うものだ。それで自分の価値を上げようとするわけだが、年寄にはその価値はあまり通用しない。逆にカッコつければつけるほど、外見をよくしようとすればするほど、気の毒で哀れに見えてくる。例えば若い娘や子供が踊りや歌のグループで活躍するのを見ても、年取ったらこの子たちはどうなるのかと心配になる。若くてきれいな娘でも、必ず年を取り、おばあさんになる。若さはそう長くは保てないものだ。年を取っても衰えないモノ、年を取ればとるほど良くなっていくものを、大事にしてほしい。
- 勉強でも遊びでも、また仕事などどんなことでも、一生懸命に取り組んでいる若者には感服する。一生懸命ということには、年齢がない。若者や子供にも教えられることはある。
注)一生懸命というものに、なぜ感服、感銘するのか。これは、宇宙の意思であるからだろう。一生懸命というのは、一つの事を少しでもよくしようということであり、そして自分自身も少しでもよくなろうということである。つまり、宇宙楽園建設への生成化育にマッチしているからであろう。
- 若者はどうしても見えるモノを大事にする傾向があるが、少しでも早く、モノよりも大事なもの、こころ(心)に気づいて欲しいと願う。
注)若い内はモノを集めて、モノでカモフラージュするのは仕方ないことだろう。しかし、外国など知らない土地で暮らしてみると、モノ(家、車、服装、装飾品、会社名、大学名等)では人は評価してくれないことがわかるだろう。かえって、その人の見えないところ、例えば、こころ、頭脳、性格、特技などで評価されるのである。そのようなことで評価されると、不相応に高価なモノを身につけたり、所有している場合には、どこかおかしいとか、悪いことでもしたのではないか、等とかえって疑われることになる。
稽古でも、若者を見ていて思うことがある。若者は自分がたどってきたのと同じような道をたどっているので、その若者が今はどの段階にあり、どんな悩みや問題があるか、また、どうすればその問題を解決できるのか、等が見えるわけである。
- 一生懸命に稽古している若者には頭が下がる。自分の稽古に刺激を与えてくれる師、ということになり、引き続き頑張ってほしいと応援する。
- 時に若いのに出来上がっている若者もいる。ある段階までくると、一度ちょっと天狗になるものだ。しかし、その鼻も稽古を続ける内に、自然と折れてしまうものであるから、早く折れるようにと思いながら見ている。
- 若い内は腕力や体力で技をかけるものだが、力けっこう。大いに力を使い、力をつけるべきである、と応援している。力を使う事、力を養成するような稽古をすることを、後ろめたく思っているようだが、機会があれば、力は必要であり、大いにがんばりなさい、と言う。それと同時に、さらにもっと違う力がある、ということを示してやることにしている。ある程度力に頼る稽古をすれば、いずれその力の限界、自分の体力の限界を感じるはずだし、魄の力とは違う力をつけようとするはずである。
- 若者は、合気道の真のすばらしさをまだ本当には解っていない。合気道がある程度わかり、合気の道に乗って進むまでには、ある程度の年月が必要なので、仕方がないことである。
これを教える人は、今のところあまりいないだろうから、高齢の我々先輩が、合気道の真のすばらしさを追及し、合気の道を一生懸命進もうとしている姿を稽古で示すしかないだろう。若者がそれに気づき、それに興味を持てば、何か会得してくれることだろう。これが、われわれ高齢者の勤め、後進育成だろう、と考えているところである。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
▲