【第453回】 老成

合気道に入門した若い頃は、全身全霊で稽古し、何者も恐れることなく、先輩にも同輩にも挑むような稽古をしていたものだ。

ある程度、形を覚えて、受け身が取れるようになると、合気道とは簡単なものだと思ったり、自分が名人にでもなったように増長するようになったりすることもあった。

今、己が年を取ってくると、今の若者の稽古や気持ちが手に取るように分かるようになってきた。それに、当時若かった己のことも見えるようになってきた。若い時の稽古は、相手を倒すこと、抑えることを目指すものであり、それができると強いとか上手ということになる。そのため、腕力や体力をつけて、気力と迫力で稽古するのである。

このような稽古は、若い内は必要不可欠であるだろう。だが、年を取ってくるとできなくなってくるものである。若い内はこのようなことはわからないだろうが、年を取ってきたら、高齢の稽古、老いの稽古に変えていかなければならない。

だが、合気の道は果てしない道を進み、そして精進していくものであるから、年とともに上達していかなければならない。つまり、若者の稽古よりも老いの稽古が優れていなければ、合気の精進ではないわけである。老いの稽古、そして、それから出てくる老いの技が、若者よりも優れているはず、ということになる。

能楽師の安田登氏が『日本人の身体』(ちくま新書)の中で、『風姿花伝』の世阿弥の「麒麟も老いては駑馬に劣るが、年を取っても花のある役者には、どんな若い花でも勝つことはないだろう」という言葉を取り上げている。つまり、年を取っただけではただの役立たずの年寄だが、花のある年寄になれば、若者の花でも勝つことはできないということであり、そして、年を取らなければよい花を持つことはできない、ということである。

では、どうすれば老いて花を持つことができるのか、ということである。能の世界では、「積極的に老いる」ことであるという。つまり、老いてこそ芸の真髄が発揮できる、と思ってやっていくのである。合気道においても、老いてこそ技の真髄が発揮できるようになるものと考える。

安田氏は同書の中で、「からだも十分に動かず、声も美声でなくなってきた。その時こそ本当の能ができるようになる」ともいう。そして、この「本当の能」とは、「心(しん)にてする能」「心よりできる能」だという。

これを合気道に当てはめると、体力が衰えて若者のようには動けなくなり(正確には、動かなくなり)、腕力も体力もなくなってきた(正確には、使わなくなった)時に、本当の合気の技ができるようになる、ということである。

また、世阿弥は「舞・働は態なり。主なるものは心なり。また、正位なり」といい、能では「謡の美しさや舞の素晴らしさは二の次になります。心が大事」という。

合気道の世界では、動き・技とは目に見えるモノ、魄であり、必要ではあるが、後ろに控えさせなければならない。そして、表にでるのは、目で見えない魂(心)でなければならない、ということになる。つまり、魄の力ではなく、魂(心)で技をかけていくのである。魂が魄の上になるのである。

このような心の稽古は、若い内は難しいだろうし、老いて初めてできるようになるものであると考える。しかし、老いることは必要条件であるが、老いたからといって、技がうまくなる保証はない。老いただけでは、ただの駑馬(どば)である。

つまり老成しなければならないのであるが、老成とは「経験を積み、物事に慣れて上手であること。また、そのさま。」(『大辞林』)ということである。合気道での老成は、稽古を積み重ね、宇宙の法則に則っている技を身につけ、宇宙と一体化していくことであろう。

従って、能でいうところの花は、合気道においては、宇宙の法則・条理に則った技であり、その心ではないか、と考える。

年を取って老いてきたら、自分はまだ若いと思おうとしたり、アンチエイジングなど無駄な努力をするのではなく、老成するよう、そして花を持つように、積極的に老い、そして、修業を続けていくことがよいだろう。


参考文献  『日本人の身体』(安田登著 ちくま新書)