【第450回】 高齢者の稽古

合気道の稽古に若いも年寄りもないように思っていたが、自分が年を取ってくると、年を取れば取ったような稽古をしなければならないと思うようになった。

年を取ってきているのに、自分はまだ以前のように若く元気だとばかり、若い頃のように腕力、体力で稽古しているのを見ると、ハラハラしてしまう。

社会的に高齢者といわれるようになったら、それまでの稽古で培ったものを土台にして、新たな稽古、そして若い時にできなかったことを稽古すべきだ、と考える。

高齢者の稽古のポイントは、まず、怪我や病気をせずに稽古を続けていくことである。一度、病気や怪我をすれば、若い時とは違い、再起不能になる確率が高くなるからである。

稽古で怪我をしないために最も大事なことは、相手ではなく、自分を見つめながら、自分と戦う稽古をしていくことである。若い時のように、相手に負けまい等と相手を意識する稽古をしていけば、自分や相手が怪我をすることになるだろう。

次に、怪我をしないためにも、さらなる精進のためにも大事なことは、体を柔軟にすることである。この重要性を意識しなかったり、実行しなければ、体は確実に固まっていく。この固まっていく進行速度に負けないように体を鍛えていけば、年を取っても体の柔軟性は保持できるし、増進できるだろうと思う。根拠は、大先生、有川定輝先生などの先人や先輩がそれを保証しているからである。

何はともあれ、年を取れば体は固くなるから仕方がないという、一般的な先入観は捨てた方がよいだろう。

体を柔軟にするためには、体を柔軟につかっていかなければならない。そして体を柔軟につかうためには、体を息と合わせてつかうことである。その息は縦と横の十字の呼吸である。縦の腹式呼吸と横の胸式呼吸をイクムスビでつかうのである。

この息で体をつかうことができれば、次に息と体を心でつかうようにすれば、さらに体を柔軟につかえるようになるはずである。

柔軟な体というのは、伸び縮みするということと、可動範囲が広いということである。従って、体が縮むように求心力をつけ、伸びるためには遠心力をつけなければならない。木刀などを求心力だけで振ると、体はどんどん固まってくるから、体を固くするために頑張ることになってしまう。

年を取ってきたら、怪我をしないような稽古、つまり体を柔軟にする稽古をしなければならないと書いてきたが、要は、理に合った稽古、理合いの稽古をしなければならないということに尽きるのである。

つまり、理に合ったことをしていかなければ、体に害を及ぼすことになるし、技も効かず、壁にぶつかり、そして引退ということにもなる。

合気道の技は宇宙の条理・法則を形にしたものである。その法則を、技を通して身につけ、宇宙と結んでいこうとするのが、合気道の目標である。だから、その法則性に逆らわないように稽古していかなければならないはずである。その法則性に合っていることが、理に合っている、つまり理合いである。

理合いの稽古をすることは年寄の特権ではないが、若い内は腕力や体力に頼ってしまうので、理合いの稽古は難しいだろう。力に頼れなくなってくる高齢者となって、初めてできるようになるようだ。

しかし、高齢者になる若い内から、この理合いの稽古の準備をしておく必要があるだろう。高齢者になったからといって、すぐには切り替えが難しいからである。

理合いの稽古をするためには、実技だけでなく、理論も必要になる。自分のやっていることが、大先生がいわれたことと違ってないかどうか、常に確認し、反省し、挑戦していくのである。

若い時と違って、時間も取れるようになるし、じっくり読書もできるようになるだろう。大先生の『合気神髄』『武産合気』を忍耐強く繰り返し読み、己の技を研究、精進するのである。自分が実践した技は、理論的に説明でき、自分で納得できなければならないと考える。理論と実践の表裏一体である。

そのためには、それまでの相対稽古主体の相対的稽古から、自分の稽古、つまり、大先生がいわれている「相手があって、相手がいない」絶対的な稽古、そして一人稽古へと、比重が移っていくはずである。