【第444回】 出来上がったら終わり

合気道は、終わりのない修業をしていく武道である。これで完成とか、完結ということはない。それを知りながら稽古している合気道同人は、悲劇の人というべきかどうかはわからないが、おそらく完結しないことを知りながらも、稽古を続けている同人に、そのような悲劇の暗い影は見えないようである。

世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな事をやっているものだ。合気道的に表現すれば、各人、使命をもって宇宙建国のために働き、生成化育をしているのである。みんな、万世一系の家族なのである。人だけでなく、万有万物が一元の大神様につながる家族なのである。

合気道のおかげと、年を重ねてきたおかげで、これまで知りたくとも分からなかったことが分かり、見えなかったものが見えるようになってきた。なにが大事で、なにが大事でないかもわかってきた。

これまでの価値観は、大いに変わった。何がほんとうに大事であるか、また、大事ではなくても必要であるか、ということがわかってきたからである。例えば、若い頃にはお金など人をだめにする悪であると考えたこともあったが、年を取ってくると、経済は生きていくため、また、修業を続けていくための土台である、と自覚するようになった。お金は、生きる上や稽古する目的ではないが、ある程度はなければならないものである。

わかってきたことがまだある。世間で偉い顔や偉そうな格好をする者は、ほんとうは偉くなかったり、恐れるに足りないこともある、ということである。若い頃はそのような人の前に立つだけで、理由もなく圧倒されたり、羨望の念を持ったりしたものだ。

合気道の道場でも、若い頃は、どうだ、俺は強いだろうとばかりに技をかけてくる先輩相手に萎縮することもあった。だが、今でも覚えているが、当時ふしぎに思ったことは、強かったり上手だったりする道場の先輩、同輩も含めて、ほとんどの稽古人は非常に謙虚であった。私の方がかえって、相手はもっと威張っていてもよいのに、と思ったくらいだ。

今では彼らが謙虚だった理由がわかるようになってきた。それは、先述したように、どんなに強かったりうまかったりしても、自分はまだ不完全である、と感じていたからであろう。

自分がもう完成していると思ったら、そこで終わりである。それを、出来上がっている、と称する。出来上がってしまったら、後は下降あるのみで、ご愁傷様ということになる。

合気道には試合や勝負がないから、出来上がってしまう危険性は十二分にあるだろう。だから、注意しなければならないと思う。例えば支部道場など限られた世界で稽古すると、危険性は大きくなるかもしれないし、また、長年稽古を続けている古参の稽古人も気をつけなければならないだろう。

政治や経済の世界でも、スポーツの世界、芸術の世界、宗教の世界、科学の世界等々、どの世界の人でも、出来上がったら終わりであろう。これは世界共通のことであり、周りから見ても見苦しいものである。

人はどんなに何かが出来るとしても、また、たとえその才能や能力があるとしても、出来上がらないようにしなければならない。その最良のお手本は、合気道創始者の植芝盛平翁である。

他人や周りの世界と闘って勝ったりすると、出来上がってしまうことになる。自分と闘い続ければ、決して出来上がることはないのである。まずは、合気道開祖を見習うことであろう。