【第439回】 これからが本格的な稽古

学生時代は、日曜日も含めてほぼ毎日道場に通って稽古していた。しかも、毎日最低2時間、よい先輩が来た時などは3時間目も稽古した。稽古時間だけではなく、稽古時間の合間や、終わった後も稽古していたものだ。

稽古が終わって道場を出ると、とたんに体中の力が抜け、足を運ぶこともままならず、当時とちゅうの家々の外に設置されていたゴミ箱の上などに腰をおろしたり、新宿駅まで休み休み帰ったことも度々あった。

だが、会社勤めになると、学生時代のように稽古はできなくなった。それでも、可能な限りでよく通ったと思うし、悔いはない。今は、当時のような稽古をしろといわれても、できないだろうからご辞退申し上げたい。

当時も一生懸命、稽古していたが、どこか物足りなさを感じていた。道場には仲間がいるし、合気道をやっているという実感があったが、道場の外では合気道をやっているということに無関心の人がほとんどで、いらいらしたり、寂しい思いもしたものだ。

今にして思えば、己の未熟さや力不足に、原因があったのである。受け身が取れたり、相手を投げることができても、合気道の事、合気道の技、己の事、宇宙の事などなど、ほとんど何も分かっていなかった。だが、自分では何でも知っており、できない事はないと思っていたのだ。

生産社会の第一線から退くと、時間的、精神的に余裕ができてくる。そうなると、過去を振り返り、未来を見ることができるようになってきた。そして、どのような稽古をしていかなければならないかも、見えてくるようになったのである。

それまでの稽古と生活は、今後の稽古の基礎をつくり、基礎固めをするためのものであったようだ。一生懸命に稽古したので、体もできたし、また精神力もついたと思う。稽古と社会生活で、己の能力や馬鹿さ加減等も分かったはずである。

定年近くなって、体力・気力がそれ以前よりも減退すると、思想や哲学など精神的なものに関心を持ちはじめて、勉強するようになってきた。開祖の思想・哲学を著した『武産合気』『合気神髄』なども、繰り返し読むようになった。そして、少しずつだが、合気道とは何か、合気道の目指すものはなにか、合気道の技とはどういうものか、宇宙とは何か、人とは何か等々が、自分なりに分かってくるようになってきた。

開祖が本の中でいわれているように、宇宙がわかる程度に、己がわかるのである。また、己がわかる程度に、宇宙も分かってくるのである。

合気道の技は、宇宙の法則に則っているので、その法則を見つけ、身につけていくことが、合気道の稽古だということも分かってきた。また、合気道のもう一つの稽古が、呼吸力養成であることも分かってきた。つまり、これからの稽古は、宇宙の法則を技に取り入れ、その技によって、呼吸力をつけていくことにある、と考える。

これからの目標は、宇宙を感じ、宇宙を取り入れ、宇宙と一体化することであるようだ。これが、これからの稽古であり、本格的な稽古である、と考える。これは高齢者の稽古であり、高齢者にならないと難しいのではないかと思う。

このような高齢者の稽古ができるように、若いうちにそのための土台をしっかりと作っておくべきであろう。