【第435回】 力をつけていく

還暦、古希と、年を取っていくと、どうしても筋肉が衰え、皮膚がたるんできたり、しわが増えてくるものだ。体重も減ってくるし、体は細くなる。合気道の稽古をしていても、そういう傾向には変わりないだろう。
また、今までと同じように稽古をしていけば、筋肉は徐々に減っていき、体は細くなっていくはずである。

年を取るということは、稽古を長くやっているということでもある。技や要領は覚えているから、つい力をできるだけ使わない稽古になりがちである。合気道は力がいらないという理想に近づこうとする気持もあるのだろう。だが、実際には、力が落ちてくると、思うようにできなくなっているのではないだろうか。

力など必要ないと考える名人高齢者は、それはそれで稽古していけばよいだろう。だが、おそらく力が衰えたために、稽古でもいろいろな問題に遭遇するのではないだろうか。

年を取って何もしなければ、筋肉は衰えてくることだろう。若い時とは違い、筋肉は使わなければ、どんどん衰えてくるものである。筋肉は使う程度だけ、維持・成長すると思われる。従って、力をつけたい、維持したいというのであれば、筋肉をつけ、体を鍛えなければならないことになる。

技は宇宙の条理、宇宙の法則に則っているはずだが、技をそのようにつかうのは容易ではない。容易ではないから、何度も繰り返して稽古するのである。その技を身につけ、宇宙の法則にある程度近づくまでは、何度も失敗し、試行錯誤しながら、稽古を続けていかなければならない。

ところが、ある技の稽古をしているときに、合気の道に則った体使い、息遣いをしていても、受けの相手の力に制され、あるいは邪魔されることがある。その場合、力が弱ければ相手の力にやられてしまい、技の追及が阻害されることもある。

力だけでやるのは感心することではないが、目的と道を追及するためには必要なことでもある。例えば、呼吸法であるが、始めのうちは相手の力で動けなくなってしまうものだ。諸手取呼吸法でも、座技呼吸法でも、同じである。その場合は、力をさらに養成する必要を実感することだろう。

力をつければつけるほど、技をうまくかけることができるはずである。そうなった場合には、不思議に力には頼らないようになるのである。

もちろん、ここでいう力とは、合気道の力である呼吸力である。遠心力と求心力を兼ね備え、引力があり、相手をくっつけてしまい、相手と一体化してしまう力である。

呼吸力は、基本的に技の稽古で養成していかなければならない。四方投げでも、小手返しでも、入身投げ等でも、呼吸力がつくように稽古しなければならない。もちろん、呼吸法は呼吸力を養成する最大の稽古法であるから、誰でもいつまでも鍛錬しなければならないはずである。

それ以上に力をつけたい人には、道場外での自主稽古がある。木刀や杖の素振り、鍛錬棒、四股、山歩き等々、自分に合ったことをやればよい。ただし、山歩きなどは別にして、毎日やることがとりわけ高齢者には重要である。前述のように、筋肉は使わなければ衰えるのである。毎日やれば、衰えることはないはずである。

毎日やることには、もう一つ意味がある。それは、毎日、体を鍛えていると、体がいろいろ教えてくれるのである。たまにやったのでは、それはないようである。高齢になってからの体の鍛錬は、少しでもよいから、毎日続けることである。

合気道の修業には、終わりがない。修業とは、稽古を続けるだけではなく、自分で力をつけていくことも大事であろう。

合気道の修業は技の錬磨であるが、宇宙の法則を技から見つけ、身につけていくことと、もう一つは、呼吸力をつけていくことであろう。高齢者になっても、力をつけて行かなければならないと考える。