【第429回】 柔らかい頭

高齢者になると、それ以前とは違う事、異質な事を、好きなだけ体験することができるようになる。
その一つは、正解のない問い、答えのない問い、を楽しむことである。

学校では、答えのある問題の解き方を覚えなければならなかったし、会社では、どう働かなければならないかという問いに、利益を上げることという答えを出すことが期待された。

高齢者になると、正解のある問題、答えが決まっている問題に頭を悩まされることはなくなる。しかし、これで喜んでいると悲劇が起こることになる。物事には表と裏、いい事と悪い事が同居しているものだ。

学校や会社で様々な問題に挑戦しているときは、人はボケないものだ。だが、それから解放されると、とたんにボケが始まるようである。高齢者になり、これまでの問題に悩まされなくなったら、ボケないためにも、それにかわるものを身につけていかなければならないだろう。

考えてみると、学校の問題や会社の課題などの挑戦は大変だったが、ある意味では楽な事だったといえるかもしれない。なぜならば、問いに対する答えが決まっているからである。だが、高齢者になったら、その上、つまり異質の問いに、挑戦すべきであろう。

それは、答えのない問いである。自分で答えのない問いをつくり、自分で解くのである。これまでとは違って、解けなくとも誰にも迷惑はかからない。また、それによって自分が評価されるわけでもない。まったくの自由である。他人から見ると、やってもやらなくてもよいことをやる訳だが、それをやるから楽しくなるわけである。

学生やビジネスマンの時は、誰でも自信を持っていて、時に自分はなんでも知っているし、できないことなどない、と思ったりするものである。だが、高齢者になって、じっくり世の中を見渡したり、自分を見つめたりしていくと、実はまだほとんど何も知らないし、また、できないということが分かってくるものだ。

冷静に考えてみても、たかだか60年や70年しか生きてないのでは、800万年の歴史を持つ人類や、50億年の地球、138億年の宇宙のことなど、ちっぽけな芥子粒ほども解ってないはずである。

例えば、なぜ、どのように、宇宙が創られ、地球ができ、人類が出現し、そして自分があるのか、考えてみるとわからないことばかりである。人は自分が知らない間に生れてくるのだし、こちらの希望・要望などは無視されるばかりで、そして、やがて死んでいくのである。そんなことを考えもせず、よくこれまで生きてきたものだと思う。お迎えが来るまでには、自分なりの答えを出したいものだと思っている。

答えのない問いはいくらでもあるし、どんどん湧き出てくる。若い時と違って、時間や精神的な余裕もある。自然に湧き出てくる疑問から問いをつくって、それを解いていくのである。逃げずに挑戦し、解けずに悩み、解いて喜ぶ。これが、高齢者が陥りやすい頭の硬化を柔軟にする、一つのやり方ではないかと考える。