【第425回】 人生の前半と後半

年を取ると、今まで分からなかったことが分かるようになるし、見えなかったものが見えてくるものだ。これまでは、目があいていても見えないし、何も分からない、子供のようなものだったのであろうが、これからは年を取ることへの楽しみも湧いてくる。

合気道においても、同じである。開祖がいわれていた「50,60歳は鼻ったれ小僧」の意味が、身に沁みてわかるようになってきたし、本当の稽古はこれから始まるように思える。

人はだれでも、生れて、死んでいく。その間に、学校で勉強し、会社や組織で仕事したり、また特技や技術を活かして仕事するなどして、そして、ある時期にその経済活動から引退する。

だれでも、自分がやっていること、生きていることに、意義づけしたいと思うものであろう。勉強や仕事などで生きていることに意義がある、と思いたいのである。だが、これは潜在的に思っているだけで、顕在的、論理的に、明確に意識してはいないのでないだろうか。

勉強して、よい成績を取り、よい学校、よい仕事に就く事を目指して、それを実現できれば、やった、やってよかった、と思うことだろう。そうなるようにがんばったわけだから、意義をみつけたことになるだろう。

また、経済はすべての基礎となるので、人は働かなければならない。基本的には、働いて仕事をしていれば幸せなはずであり、家族を養っていれば、働く意欲はさらに高まるだろう。仮に失業して働かないときがあれば、働きたくなるだろうから、働くことには意義があるといえよう。

仕事をしている間は、世間の経済活動に関わって、自分は会社のため、社会のため、人のために役立っていると思い、仕事や生きていることに誇りや意義を感じるはずである。

しかし、仕事を止めて自由になると、家族や昔の同僚以外には、だれも自分の話を聞いてくれなくなり、まるで空気のように無視される経験を味わうことになるに違いない。

そうなると、自分の存在意義を考えることになるだろう。これまでは会社や組織の一員として仕事をしてきたのだが、その一員でなくなると、何もなくなるのである。そこで初めて、自分はこれからどう生きていけばよいのか、を考えることになるはずだ。

人は成長期である25年を5倍した125歳まで生きることができる、といわれている。60歳、65歳で仕事を止めるとすれば、お迎えが来るまであと60年あまりあることになる。だから、その先に、何か新しい、意義のある生き方をしなければならない。

仕事を60、65歳で止めるまでを人生の前半、そして、その後の半生を人生の後半としてみよう。人生の前半は社会のシステム上、誰でもそれほど問題なく過ごしているだろうが、これから社会の高齢化もあって、人生の後半の意義ある生き方が大きなテーマになっていくと思える。

人生の前半と後半をごく簡単に書くと、一般的に人生の前半は、物質的、物理的、損得の社会、力の社会、競争社会に生きている。合気道でいう、魄が表の人生である。

続く後半とは、損得を離れた、精神的、自己向上、自己との戦いに生きて、それまで培ってきた魄を後ろにし、合いと愛によって魂が表に出る生き方をする、ということになるだろう。

合気道の修行においても、前半と後半はある。合気道の前半、後半は、人生の前半、後半とも関係あるようだ。やはり、人生の後半にならないと、後半の合気道修行には入れないようである。

この続きは、次回「合気道修行の前半と後半」で。