【第424回】 90才、100才でもできる稽古

20代の若い頃は、道場で足腰が立たないほど稽古しなければ満足できなかったものだ。また、その頃はそういう稽古がずっとできると思っていた。

自分の元気は終わりなく続くと思い、元気がなくなることなど考えもしないのが、若さというものであろう。逆に、自分の元気はどんどん衰えていって、いずれ近い内に消滅するだろうと思うようになるのが、老いということのようである。

人は誰にでも若い時があるが、やがては老いていくものである。若い時は精力的に勉強し、働き、そして稽古に励めばよい。失敗しても、怪我をしても、肉体的にも精神的にもやり直しがきくものだ。やるべきこと、やりたいことをやらないでいると、後できっと後悔するだろう。後悔するのは、失敗した事ではなくて、やらなかったことである。

年を取ると共に、人は老いていくものだと気がついたら、稽古のやり方を変えなければならない。ただし、体が続く限りできれば充分、とか、足腰が弱わるまで続けられればよい、という消極的な稽古をする人は、そういう時期は自然にくるので、好きなように稽古を続ければよい。

だが、合気道を少しでも深く探求しようという気があるなら、少しでも稽古を長く続けるようにしなければならない。物事が見えるようになり、世の中のことがわかってくるには、ある程度年を取らなければならないからである。50,60才で偉そうなことをいっても、底が浅いのである。たとえ底が深いという人がいたとしても、80,90才になればおそらくもっと深くなるはずである。

合気道がどんなに上手であっても、50,60才では、まだまだであると思うべきだろう。周囲にほめられたり、おだてられたりしても、自分はまだまだだと思わなければ、せっかく進歩上達する可能性をつぶすことになってしまう。

確かに進歩に際限はないものだが、90,100才である程度のことが解り、身に着くと期待して、90,100才まで稽古することを目指すのである。100才、否、90才までも生きられるのか、稽古できるのか、極意が得られるのか、等などは分からないことであるが、できるだろう、得られるだろう、という夢を持つのである。

夢は持たなければならないが、その実現のための努力も必要である。夢実現のためには、やるべきことがあるはずである。

それは、90,100才になってからではできないだろうから、その前から準備する必要がある。それができる今の内から、準備していくのである。それを一言でいえば、90才、100才でもできる無理のない、理合の稽古を、今からしていくことである。

宇宙の法則に則った技づかい、動き、息づかいで、稽古していくのである。つまり、無理のない、自然体の稽古ということになる。

若い時の力による魄の稽古を、心である魂主導の稽古に変えていき、宇宙の法則を少しずつ身につけることを続けていけば、90才になると若い頃の角が取れて、心も丸くなり、無理のない自然な稽古ができるようになるのではないか、と考えている。