【第415回】 今を楽しむ

合気道の稽古に来ている人達には老若男女がいて、仕事も勉学も入門年もそれぞれ違っているし、千差万別である。その稽古の目的も千差万別であるし、優先順位も違うだろうが、共通する目的は、少しでも上達したい、上手になりたい、ということではないだろうか。

稽古を一生懸命にやっている高齢者もけっこうおられる。60歳前後でまだ仕事をし、時間を見つけて稽古に来ている方もいる。おそらく彼らに共通する思いは、定年になったら仕事から離れるので、稽古も思う存分できて、さらに上達できるだろう、ということだろう。

しかしながら、この期待はだいたいにおいて裏切られるようである。定年になっても思うような上達がないだけでなく、以前のような満足を稽古から得られなくなるのである。

他人のことはよく分からないが、自分のたかだか2年間の無職時期の経験でもそうであった。その時わかったことは、忙しいとか、やるべきことがあるからこそ、かえって稽古を一生懸命やったし、稽古する意味があった、ということである。意味があるというのは、稽古の喜びや有難さを実感できる、ということである。

定年を迎えてから、合気道を始める方もおられるだろう。よい選択をされたと思うし、是非少しでも長く続けて欲しいと願うものである。長年合気道の稽古をしていた方が、定年で時間が取れるようになって、さらに稽古に専念できるようになるのも、がんばって欲しいものだと思う。

しかし、先述のように、時間の余裕ができただけで、自分の稽古が変わるわけではないだろうし、目を見張るような上達があるわけでもないだろう。上達するためには、上達するようにしなければならないのである。

それは何かというと、時間の余裕、気持ちの余裕ができるのを待つのではなく、「今」を精いっぱい生き、「今」の稽古に身を入れることである。できる限りのことをやっていくのである。小さいことに思えるようなことでも、ひとつひとつ解決し、身につけていくのである。

現実を見つめ、時間がもっとあったらとか、定年になれば、等と考えず、今の与えられた環境や条件のもとで、精いっぱいやるのである。

人は、今を否定したり、不満をもったり、改善したい等と思ったり、先に期待する性(さが)をもっているようだ。このような人の性が、科学を発達させ、文明を進化させてきたわけだから、そのような性を変えるのは容易ではないだろう。

しかし、その現状に満足できなくて、「今」に不満をいうのは、変えていかなければならないだろう。とりわけ合気道の稽古に励む人は、そうあってほしいものである。

例えば、冬の寒い日は寒いといい、夏は夏で暑いと不平をいう人がいる。道場の外の世界でそういうのは仕方ないが、修行している者にとっては、冬の寒いのは当たり前で、いかにその寒さを楽しむか、が大事であろう。

真冬の寒い日に、稽古の後で冷たいシャワーを浴びるのも、寒さを楽しむことになるだろう。寒さに不平をいい、暑さにも不満であっては、年がら年中、そしてどこでも不平をいってなければならなくなる。注意してみると、世間が不平だらけに思えてくる。

「今」を楽しむことができれば、定年になればさらに楽しめることだろう。そして、おそらく過去と未来も楽しめるようになるだろう。

技の練磨の稽古を一生懸命にすれば、昔の柔術や剣術等々につながっていくし、そして、目指している理想の技や自分、そしてこうなって欲しいと願う人類や世界の未来につながっていくはずである。楽しみはどんどん増えることになる。

高齢者になれば、いずれその内にお迎えがくることであろう。だが、そんなことはそちらにお任せし、こちらでは「今」を楽しむことである。「今」を楽しむことができなければ、先も楽しめないことになるだろう。