【第41回】 無駄が完全になくなったときが死ぬとき

世の中、ますますせちがなくなってきている。目的や目標には直接関係なく、省けるものは省いてしまう。そのような傾向は、ビジネスの世界はいうに及ばず、生活領域の食、住までに及んでいる。食事は料理しないでコンビニ弁当やインスタントもので済ませるし、家を作る際にも、以前は必ずあった庭や廊下を省いたものを建てている。

合気道の世界でも、稽古が短略化されてきているようだ。投げたり、倒したり、決めればいいとばかりやっているだけで、その為の研究や努力がなくなっている。二教の裏を技をかけるにしても、ただ力を込めてやればいいとばかりやっているが、上手くいかなければ上手くいくようにするための努力が足りない。

我々が合気道をはじめたころ、二教の裏を先輩に掛けられて決められても、こちらの技は全然効かず、よく仲間と自主稽古で掛け合って鍛えたものだ。そうやって手首を鍛えると同時に、どうすれば効くようになるのか研究した。今は、そのような稽古をしている稽古人を見ることがなくなってきた。なるべく楽して、苦労せず、かっこよくやろうとするばかりだ。

文明社会は、人を楽させる社会である。力の要ることは機械がやり、計算は計算機がやり、文字や文章はコンピュータがやり、移動は乗り物がやってくれる。そして人はその中に取り込まれていき、その上、それに振り回されてしまう。

年を取ってくると新しいことをやることがおっくうになりがちである。これまでやってきたことでも面倒になり、だんだんやらないようになり、最低限だけやればいいやというようになってしまう。

例えば、稽古に通うのも面倒なので家から出ない、立ったり歩いたりするのも面倒だから座ってテレビを見る。その内、座っているのも面倒なので寝たまま、と無駄を省いていく。そして、息をすること、食べることという最後の無駄を取り去ったところで死を迎える。つまり、ここでの無駄とは、死ぬということに対し、また生物として生きることに対し、"しただけの効果や効用のないこと、役に立たないこと"ということである。

合気道の稽古は、生きる上で絶対必要ではないという意味で無駄であるかもしれない。家で座ったり、寝ている人から見れば、無駄なことをやっていると思うかもしれない。しかし、人は自然や成り行きに逆らうようにできているはずだ。人は死ぬことが分かっていながら、それに一生懸命逆らって生きているし、地球の引力に逆らって立ったり、走ったり、跳ねたりしている。

無駄なことをするということは、生きていることを実感するためにやるのではないか。高齢になってもこの"無駄"な合気道を続けるだけでなく、この合気道を基に、また、その上達のためにも能を見たり、コンサートに行ったり、美術展を見たり、由緒ある神社、仏閣、名所を訪ねたり、道場でも外でもいろいろな人と接し、どんどん無駄をしながら生きていくほうがいいのではないか。いずれ無駄が完全になくなるときが必ずくる。それまで思い切り無駄をして楽しもうではないか。